それは、雨の季節の初めの頃のこと。
戦神でもある女神の治める広大な砂漠には、ある様でないような季節が、やっぱり何となくあり、特に山脈の麓から続く岩山の一帯では、極端な豪雨に見舞われ、濁流が発生するようなこともあったが、それはまあ、稀なことで、大抵は一過性の暴風雨が来たりする季節、というものだった。それでも、太陽や星の遮られる日もあり、さらさらと雫の振るときもあり、この過酷な地に生きるわずかな生き物達にとって、恵みの季節ではあった。
草原と砂漠とを隔てる山脈を雨雲が超え、静かにしっとりと雨が降ると、一時、瞬間的に、微かにだが、草原の出来る地域がある。そこには小さな町があった。少し行けば砂と緑の大国の、名物領主の治める砂漠地方の領地だが、岩山に隔てられて交流も少なく、他の砂漠のオアシスからも遠いとあって、どこぞと変わらぬ、ただの田舎町であった。
そして、少年の訪れた店は、その町にある。
「待って下さい! それは、売り物ではないんてす! うちの、大事なものなんです!」
田舎町の短いメインストリートにある一軒の店から、若い男が先に出てきた柄の悪そうな四、五人の男達を追うように転がり出てきて、そう叫んだ。この話をしている、美人の奥さんもらって幸せ絶頂期の若旦那だ。見れば店はこんな田舎には珍しい骨董屋で、先に出てきた男達は、素人目にも高そうな、巨大な壷を皆で抱えていた。
「ぐたぐだ抜かすんじゃねえよ。俺らの主人がこの壷が良いってんだから黙って貸しな。今度の雨季の祝いの宴で飾るんだとよ。有難く思いな!」
男の一人が、壷を抱えたまま振り返って凄んだ。
だが、若い男は及び腰になりながらも、引き下がらなかった。
「貸せ貸せって言って、今まで持っていったうちの品物、返してくれたことなんか無いじゃないですか!」
「うるせー! 返すってんだろが」
イライラと男は怒鳴り、勢い振り返って壷から手を離した。
ぐらり。
壷が傾き、一瞬にしてその場に居合わせた全員の顔から血の気が引いたが、慌てて男が壷に手を戻して、事なきを得た。
「お、おめーがつべこべ抜かすからだ! こっこっこの壷壊されたくなけりゃ、こ、これ以上俺に喋らせんな! 行くぞ!」
いくら返す気が無いとはいえ、主人の元に持って行く前に壊したのでは、自分達がどれ程叱られるか…。思わず鶏になりかかり、冷や汗をだらだら流しながら、男達はわっせわっせと速足で通りを遠ざかっていった。
成す術もなく、いや、無いわけでもないが、これ以上悪いことになりそうなので出来ず、骨董屋の若い主人は、無念の思いでそれを見送った。
「じいちゃん、とうちゃん、…ごめん、とうとう盗られたよ」
がっくりと通りに膝を降り、両手を突いてうな垂れ、呟いた。盗られた壷は、祖父がその目利きに物言わせて買い付けた物で、決して売るなと遺言されていた。父親も死ぬとき彼に、人手には渡すなと言い残したほどだ。
家宝とさえ思っていた。
それを、それを…。
骨董屋の若旦那は、ぐっと拳を握り締めた。
頼もう。彼らに。
しばらく前から考えていたことを、そのとき決心した。
弱きを助け強きを挫く、頼もしーい庶民の味方。
そう、それは、戦う吟遊詩人とマッチョな踊り子。
意を決して彼は立ち上がり、店へと向かった。「しばらく休みます」と張り紙を出し、噂の姉弟を探しに出るための準備をはじめる。旅支度だ。何処にいるのかさえ定かではなく、誰に頼めばいいのかさえ誰も知らない。だが、彼らは自分達のみかた。きっと見つかるはずだ。
若き主人は決意を胸に、店の戸を閉めた。
人気の無い田舎の通りに立ち、慣れ親しんだ、連なる山脈を振り返った。
と、その道の続く彼方に、ひどく偉丈夫な影がふたつと、何だか細かいものがうかんで見えた。
まとめて、ずんずくずんと近づいてくる。
十間先くらいまでやって来たところで、何となく判別できた。それは、芸人風でありながらも、これでもかと筋肉をつけた赤い髪の女と、やっぱり小山のような筋肉美の、金髪の男と、あとはなんだか判別しにくいが、恐ろしくきらきらの小さいずるずるしたものと、もっと小さいぽわぽわしたもの無数が、二人の周りに纏わりついているようだった。
何だ解らずぼーと見ていると、踊り子らしき偉丈夫は、不意に立ち止まり、小さいきらきらずるずるしたものをむんずと掴むと、吟遊詩人らしき男の微かな制止を無視して、渾身の力をこめ、後ろの山脈の彼方へと放り投げた。
「それが叔父様に対するたいどーかーいー・・・」
遠のく余韻を残しながら、きらきらずるずるしたものは、大量のぽわぽわしたものを引き連れて、昼下がりの空に小さくきらりと輝き、消えて行った。
その投擲は、これから旅立とうとする骨董屋の若い主人の胸に、一種の閃きに似た確信を与えたのだった。
伝説に聞く女神と同じ赤い髪。その女神の愛をただ一人得たと言われる美しい吟遊詩人と同じ金色の髪。悪に対して容赦なしと謳われる彼らであれば、いま、その踊り子が見せた腕力ぐらい、持ちえていてあたりまえだ。
違いない。
このふたりの偉丈夫に、間違いはない。
彼らこそ、自分が探しに出ようとしていた、ふたりに違いない、と。
悪あるところに彼らあり。
義には厚く、情には脆い。
弱きを助け強きを挫く、我らのみかた。
戦う吟遊詩人とマッチョな踊り子!
その確信に、今さっきその中の一人がしでかした事は、彼の中ではきれいさっぱり、なかった事になっていた。
「それは、大変ですね…」
若旦那が通りの真中で捕まえた二人は、探しに出ようとしていたふたりに違いはなく、いま閉めたばかりの店の中で、お茶を飲みながら話を聞いてもらい、恐ろしく体格の良い吟遊詩人が、しみじみと彼の境遇に同情して、相槌を打ってくれたところだった。
体格に似合わす、情が強く涙もろいようで、流石だとその一言に若旦那も感心し、感動していた。
「で、その壷を取り戻して欲しいって訳かい?」
そうきいてきたのは、今まで黙って茶を飲み、茶菓子を食って話を聞いていた踊り子の方だった。
女神を髣髴とさせる赤い髪と、尊大な態度がいかにも悪に容赦なしといった感じで、彼は黙って生真面目に頷いた。
「壷だけで良いのかい? まだ色々持ってかれてんだろ?」
親身になって聞いてくれる吟遊詩人の一言に、思わずぐっときた若旦那だったが、ここで浸っているわけにもいかないので、何とか口を開いた。
「…贅沢は、…言えません」
言葉を出すまでの、一瞬の間をどう取ったのか、大柄な吟遊詩人が、涙目になっていた。踊りこの方も真面目な顔で彼を見つめ、もう一度尋ねた。
「その、店のもんを持ってっちまっている奴ってのは、かなりの金持ちなんだろ。壷以外を取り返さないってのは、泣き寝入りなんじゃないかい?」
その言葉に、感動や憧れから現実に引き戻され、返す言葉もない若い店主だったが、それでもどうにか答えた。
「…何も、お返しできるものが無いのです。こんな田舎ですから、店はあっても金は無く、お二人にお支払いできる報酬が無いのです。庶民の味方とお聞きしていましたので、ついつい甘えて以来させて頂きましたが…。その上に、他のものまで取り返して下さいとは…」
「…そんなこと、…気にするなよ」
悔しさに言葉を詰まらせる若旦那の姿に、思わずその肩を叩いて自分も涙ぐみながら、声を詰まらせる吟遊詩人だった。
そして、踊り子も、自身ありげにこう言った。
「そうそう、気にするなって。…報酬ならあちらサンからもらうさ」
そこに浮かんだ微妙な笑みと、吟遊詩人の涙に、骨董屋の若い主人は新たな感動を覚えた。
情に脆く義に厚い。
そのとおりだ。
悪を憎む姿も、この女神を髣髴とさせる踊り子の、この微笑に、現されているではないか、と。
「お願いしても、…よいのでしょうか」
思わず尋ねる若旦那に、巨躯に似合わぬ吟遊詩人の、涙でいっぱいの優しげな顔が頷き、筋肉バリバリの踊り子の、不敵な笑みが返ってきた。
「金は天下の回りもの。有る所からもらうってものさ。…これでしばらく、あたしらも路銀の心配はなくなりそうだしね」
さっきから、何かちょっと、それは…、と思われるような言葉がちらほらしていたが、骨董屋の主人の耳には右から左。彼にとって二人は正義の味方、戦う吟遊詩人とマッチョな踊り子。盗人まがいの行為があったとしても、見えないし聞こえないのだ。
雨季らしい豪雨の降った次の日、平原がうっすらと緑になったかなーと思われる日に、例の田舎の豪族の、まあ広いかもね、と思われる屋敷で、近隣の権力者を集めての、雨季の祝いの宴が催された。
宴だ。当然余興もあり、骨董屋の若主人に依頼された例の二人、戦う吟遊詩人とマッチョな踊り子も、そこで場を盛り上げる芸人の一人として、屋敷に入り込んでいた。
あの日以来、「しばらく休みます」の看板を出したまま、店の中でじっとこの日を待っていた、依頼人である若い主人も、結局黙って待っていることができず、その屋敷へとやって来ていた。まったくもって、誰かが忍び込むだろうなどは全然考えてもいない無警備だったので、骨董屋の主人でも、易々と奥へ入り込めていた。
この屋敷には何度か、初めの頃に商品を運んできているので、大体の間取りは知っていたし、遠くに聞こえる宴の、出来上がりきって盛り上がりきった騒ぎを子守唄に、そこここで柄の悪そうな手下や使用人ぽい者達が、酒の壷を抱えて酔いつぶれて眠っていたので、誰にも見咎められることなく、自由に宝物庫まで辿り着けた。
宝物庫には鍵が掛けられていたが、若主人はじっと店の中で待っている間に鍛えた、錠前開けの技を駆使して、外した。
吟遊詩人に教わった技だ。
骨董屋をやめても食べていけそうな気がしたが、それはとりあえず、考えないことにしておいた。
広く薄暗い宝物庫には、明り取りが一つだけである。
目が慣れるまで少しかかったが、若主人は成金趣味で安くて派手な紛い物をかき分けて、自分の店から持っていかれた、きちんとしたものだけを持って帰ろうと奥へ進み始めた。その耳に、微かにすすり泣く声が聞こえてきた。明り取りの辺りである。
彼が山と積まれたガラクタを避けつつ、ゆっくりと近づくと、明り取りから落ちる光の下に、若い女性が座り込み、近づく彼を見つめていた。
この小さな町では、ちょっと美人で評判な、町外れに住む音楽家の娘である。
当然、まだまだ独身の、骨董屋の若主人も知っていた。
床に座り込み、怯えた様子で見上げる目にたまった涙と、茶色の髪とが光に輝き、見つめる彼の胸を締め付けた。
「…な、なぜ、こんなところに」
思わず口をついた科白に、娘も彼がこの屋敷の者ではないと感じたのか、少し警戒を解いて、口を開いた。
「…貴方は?」
何と優しげで澄んだ声だろうか。
グッときた後にハッとさせられて、若主人は店の骨董品のことさえ忘れかけたが、彼女の敵ではないことを主張するためにも、自分が何者で、何故ここにいるかを手早く説明した。もちろん、戦う吟遊詩人とマッチョな踊り子のことも外さない。
「お店を守るために、ご自分でもこの屋敷に…。勇気がおありなんですね」
涙の残る目で見つめ上げられて、再び胸にグッと来た彼は、一時言葉を失った。
「わたし、演奏旅行に出ている父と母の代わりに、今夜の宴で演奏しろと言われて、連れてこられて。…でもわたし、まだ手解きを受け始めたばかりで、演奏なんてとても…。そう言ったら、それならばここの主の妾になれって迫られて、断ったら、足枷を着けられて、ここに閉じ込められてしまったんです…」
よくよく見れば、座り込む彼女の足元の裾からは、必要以上に重そうな鎖が伸び、それには鉄の球が繋がれていた。
この告白に、骨董屋の若主人は思わず、娘の肩に手をかけ、その儚げな瞳を見つめていた。
「店の商品よりも、貴女の事の方が大事だ。町の権力者全員を敵に回したって、貴方をここから連れ出しましょう!」
そんな危険を顧みず、自分のことより私のことを大事にしてくれるなんて…。その情熱的な若主人の言葉に、娘も胸がキュンとなった。
いや、まったく、ひと目惚れとはこのことである。
「待っててください、いま、鎖を外しますから」
ここ数日で鍛えた錠前破りの腕がある。
骨董屋の若き主人は、娘の足元に屈み込み、カチャカチャと足枷を外しにかかった。カチャカチャカチャカチャ…。異様に頑丈で複雑な鍵である。カチャカチャカチャカチャ…。扉の鍵なんかよりずっと頑丈だ。
遠くに聞こえていた宴の喧騒が消えていることなんて、懸命に作業をする若主人の耳には入ってこず、枷を着けた足を預けながらも、その姿をうっとりと見つめる娘には、どうでも良いことだった。
そこにあるのは二人の世界。
こんな薄暗い宝物庫の奥だって、今このいっときにはパラダイスなのだ。
そんな花咲く野原に、不意に第三者の声が割って入ってきた。
「おーい、骨董屋の旦那、いるかーい」
ひどく心地の良い声が響いてきた。
思わず、「一曲頼む」と言いたくなるような声だ。
ズシズシ歩く足音と共に現れたのは、巨大な壷を軽々と一人で抱えた、金髪の偉丈夫、戦う吟遊詩人であった。
パラダイスは埃をかぶった…。
「えーと、これは、…失礼しました」
恨めしそうな二対の目に出会って、でかい壷を抱えた大柄な男は、小さくなった。
「無粋だねえ」
後から現れたマッチョな踊り子にもこき下ろされて、吟遊詩人はいじいじと壷を持ったまましゃがみ込んだ。
「おや、なんだい、取れないのかい?」
娘の足についた枷を見て、踊り子は二人のもとに歩み寄り、片膝をついた。そして、おもむろに鉄製の枷と白い足首との間に左右の指を掛けると、軽くぐいーと引っ張った。
錠は壊れ兆番は弾け、枷は易々と壊された。
恐るべし、極限まで鍛えた筋肉の力…。
「外れなければ、壊すっきゃないさ」
惚れ惚れと尊敬の眼差しで見つめる二人に言い放ち、踊り子は赤い髪を揺らして豪快に立ち上がった。
「しかしまあ、よくもこんなにガラクタばっかり、集めたもんだね。あんたんとこから持ってかれたのも、こんなのばかりかい?」
骨董屋の若主人が、音楽家の娘を助け起こす間、宝物庫の中を見回していた大柄な踊り子は、あきれた声でそう聞いた。
「いいえ、幾つかはどうでも良いような商品でしたが、大半はきちんとしたものです。でも、この部屋の一体何処にあるのか…」
骨董屋の主人でなくとも、悩んでしまうような物の数である。
「あの、まともそうな物でしたら、確か、あの窓の下辺りに幾つか…」
そう言ったのは若主人の腕にすがった娘である。
骨董屋の主人は彼女を連れて、その山の辺りへと急いだ。
そこには確かに、彼の店から持ち去られた商品が、粗雑に積み上げられていた。あまりの扱いに、絶句してしまった骨董屋だったが、幸いどれも破損したようなところはなく、ほっと胸を撫で下ろし、何とか気を取り直して、値打ち物を掘り出した。その中に、彼の店のものではないが、掃き溜めに鶴と言わんばかりの、地味だが異様に高価な茶碗が埋もれていた。
「掘り出し物かい?」
思わず手にとって、じっと見つめる骨董屋の様子に、踊り子が声を掛ける。
「ええ、素晴らしいものです」
惚れ惚れと呟く骨董屋に、踊り子は「じゃあこれを、今回の報酬に戴こうか」と言って、脇からひょいと手を出して、その茶碗を取り上げた。そして、足早にさっきの場所に戻ると、まだいじいじとしゃがみ込んでいた吟遊詩人を、軽く蹴り倒した。
「さっさと行くよ!」
壷を抱えたまま、ころんと転がった巨躯を尻目に、ガシガシと入り口へと歩き出す。
「待ってよ姉ちゃん!」
慌てて起き上がり、後を追うその姿を、唖然と見ていた骨董屋の主人と娘だったが、彼らも屋敷から立ち去るべく、取り返した商品を抱えて扉へ向かった。
相変わらず廊下には、酔いつぶれた屋敷の連中が累々と転がっている。それを踏まないように注意して、彼らはお行儀良く、静まり返った屋敷の、正面玄関から立ち去った。
もともと、屋敷自体が町外れにあるため、屋敷を出ても、町の中心までは遠く、人目もほとんどない。それに、もうすぐ日も暮れる。人々は家に戻って夕餉の時間だ。彼らは誰にも見咎められることなく、骨董屋まで辿り着いた。
そして、別れの時はやってくる。
「あの屋敷の酒にちょっと工夫をしてね。目が覚めたらおそらく、ここ一週間くらいの記憶が無くなってるはずさ。何だか趣味の悪い装飾品ばっか集めてた、趣味の悪いおやじには、ちょっとばかりよけいに薬を入れといたから、もしかして一年近くの記憶が吹っ飛ぶかもしれないけど、まあ、自業自得っもんさ」
町外れまで見送りにきた骨董屋の主人と音楽家の娘に、傾いた太陽の中にたたずみながら、マッチョな踊り子はそう説明し、この後は大丈夫だろうから安心しなと、にやりと笑って見せた。
その後ろに立つ戦う吟遊詩人も、よかった良かったと頷き、優しげに笑っていた。
弱きを助け強きを挫く、我らのみかた!
ああ、やっぱり、かっこいい!
思わず見とれる二人の前で、彼らは背を向け、歩き出した。
「これからどちらへ!」
問い掛ける娘に、振り返ったのは踊り子である。
「行かなきゃならないところさ」
返す口元には凄艶な笑みがあった。
そうして、歩き去る屈強な後姿を、二人は黙って、いつまでも見送っていたのであった。
…そして、話は冒頭へ戻る!
end