白い砂浜に、ぽとりぽとりと紅い水滴が落ち、吸い込まれていく。
夜とはいえ、その光景は酷く虚無的で鮮やかだった。
数歩退いた後ろから、シュンはその散り広がる染みを見つめていた。
紅い水滴は鮮血で、きつく握られた拳から滴り落ちている。その上へ視線を沿わせていくと、裂かれたTシャツの袖が染まっていて、さらにその上では、見つめ慣れた精悍な横顔が、眉根を寄せて正面を凝視している。
軽い音を立てて、傷ついていない右手が、刃渡りの大きなナイフを握り直す。
これは、彼の戦いだった。
生きるために、生き残るために、幾夜も繰り返されてきた戦いなのだ。
シュンは彼の邪魔にならないよう、さらに数歩退いて見守った。
遠目にもそれとわかるほど覇気に溢れた黒い瞳は、対峙する闇の生き物を見据えて輝く。
手傷を負っていても、決して彼が負けるとは思わなかった。
今と言う時のあることが、それまで命のやり取りに勝ち続けてきた証なのだから。
だから、こんな場に何度居合わせても、その度に惚れ直しちゃうんだよねぇ。
シュンはうっとりと、しなやかな背中を見つめて嘆息した。
閃く鋼に星明りが映り、キラリキラリと煌く。
人ならざるものの皮膚を切り、闇色の体液が撒き散らされようと怯まず、襲い来る牙を間近で受け止めて、返り打つ。流れるように跳ねるように、腕が、脚が、背中が動いて、彼の目を魅了する。
跳ね上げた刃が煌くと同時に、大量の黒い血煙が白砂の上に散る。それを軽く飛び退いてかわし、シュンの見つめる人は無に帰すモノを見つめて立った。
「タカ?」
しばらく立ち尽くしたままの背に、シュンは呼びかけてみた。
左腕からの出血は既に止まっているようで、新たな染みが足元に出来る様子は無かったが、いつまでも無言で立ちつづける様が心配だった。
「タカ?」
もう一度呼んでみる。
それでも、まだ覇気を溢れさせている背中は動かなかった。
そっと、近寄りかけて、鋭く制された。
「来るな」
握った拳に力が入り、微かに震えるのが見えた。薄れ掛けた覇気を握り込むように。
「・・・来いよ」
それは、シュンへ向けられた言葉ではなかった。
振り向かずにタカが神経を集中させた方角、波打ち際の岩場の闇が、ずるりと動いた。
機を伺っていた一匹。
先程闇に還した奴と同等クラスの力量らしいグロテスクさだった。闇に住まう人ならざるもの。それらは強ければ強いほど、見るに耐えない醜さを兼ね備えている。
タカが、振り返る。
体ごと闇に向き直ると、四散しかけていた覇気が、急激に溢れ出した。
左手を打ち振り、自分の血を向かい合ったバケモノへ向けて散らせた。
飛んだ幾つかの飛沫がバケモノに触れた途端、奇妙な咆哮が上がった。
血が、バケモノの皮膚を焼く。
緋野の血筋にだけ伝わる、この血。体の中に流れる全ての体液、一滴の涙さえも、バケモノに対しては強酸のようにはたらく。しかし、その猛毒ともいえる血の効果を克服してその身を食らわば、最強の力を得られる。故に、闇の世界の覇を求めるものは、緋野の最後の一人である、高展を狙うのだ。
数滴の血を受けただけで、気分の悪くなるような叫びを揚げる闇の生き物に、タカは眉間にしわを寄せて薄く口を開いた。
「・・・めんどくせぇ」
呟きが暗い砂浜に落ちるのを、シュンは辛うじて聞いた。
かっこいいー! タカー。
またしてもうっとりと見つめて、シュンは二、三枚、羽根を飛ばした。
あまりにもテンションが上がりすぎて、完璧なはずの変身が解けそうになって慌てる。
ヤバイヤバイ、タカに怒られる。
タカは例えそれがシュンであろうと、バケモノの姿をしたものは嫌いだった。
鳥肌が立つほど嫌いなのだ。
毎回見つかるたびに、猛禽類に似た、見たかによれば美しいシュンの羽を見て「引っ込めろ!」と怒鳴る。
鳥系のバケモノと人間とのハーフである彼の本性は、偏見さえなければそれなりに美的感覚に訴えるものなのだが、偏見の塊であるタカにとっては、嫌なものにしか映らない。
シュンは仕方なくじたばたと、解れかけた変身をかき集めて、人の姿に止まった。
その視界の端で、刃の煌きと共に黒血が吹き上がる。
「失せろ」
低い呟きが、バケモノを闇の中へと追いやった。
禍禍しいほどに重かった空気が不意に軽くなり、南国の夜の甘さを取り戻す。
街の光に遠く、星は細かく、大気に含まれる湿度が心地よく肌になじむ。
遠くからは軽い音楽が聞こえてくる。このプライベートビーチを所有するホテルのレストランからだろう。ビーチより少し高台に建つ老舗クラスのホテルだ。両隣をパプリックの公園に挟まれ、喧騒からは遠いが、リゾートのホテルが静かでいられるはずもない。
「タ・カ!」
今度こそ、その身にまとう剣呑な空気を拡散させて立つ背中へ、シュンはチョット弾んだ声で呼びかける。
「・・・待ってろ」
今度は、ため息を吐くように制された。
キョトンとして見ているうちに、タカはザブザブと海へ入り始めた。Tシャツ・短パンとは言え、夜の海へ着衣のままだ。シュンは波打ち際まで駆け寄り、サンダルの足に波がかかったところで躊躇った。水は苦手だった。いや、風呂やシャワーくらいならば何とも思わないのだが、ハーフとはいえ、鳥系の魔物が本性の彼は泳ぐことができない。いや、それ以前の問題として、用も無いのに水に浸かろうなどと思いもしない。
その事に気づいてかどうかは分からないが、タカが肩越しに振り返る。
「ちょっとそこで待ってろ」
言い捨てて、左袖の破れたTシャツを手荒に脱ぎ、ひざ上まで来ている波にシャツを浸けた。そして、無造作に海水で左腕の血を洗った。
体質的なものとして、バケモノに付けられた傷の治りは早い。大抵、一晩経てば完治するほどだ。いまも血は止まり、傷口も塞がりかかっているのだが、まだ完全には成らない。故に、塩水が染みたか、眉を寄せて苦々しい表情をつくった。
「タカー。痛そー」
シュンは波打ち際から声だけかける。
海には入りたくないし、タカの傷の手当てはしたいが、できない。
半分は人間だが、本性が闇の生き物に偏っているため、シュンにとってもタカの血は猛毒なのだ。だからタカが怪我をしても、何もしてやれない。戦闘後の汗ばんだ背中に抱きつくこともできない。どんなに想っていても、触れ合うことも厳禁なのだ。
ホテルの部屋に帰るのに、不信に想われないよう、注意深く腕とシャツの血を洗うタカを待って、シュンは砂の上に座り込んだ。
タカの部屋に押しかけてから随分経つが、会社員の彼が休暇を取って旅行に連れ出してくれたのは初めてだった。
「おまえ、誕生日、分かってるのか?」
不意にタカがそう聞いてきたことに、事は発する。
「オレがタカの誕生日を知らないわけないじゃん!」
力いっぱい答えたシュンの頭を、タカは手にしていた雑誌の背で叩いた。
「おまえの誕生日だ!」
「・・・え?」
あまりいままでタカが自分のことを尋ねたりはしなかったので、シュンはいっとき面くらい、だが次には全開の笑顔で答えた。
「桜の花の頃!」
「何処のどんな桜のことだ!」
タカとしては普通に日付で答えてもらいたかったのだが、何しろ外見も性格も可愛い系のボケキャラのくせをして、年齢だけは百年では到底足りない、中身はバケモノのシュンだ。生まれた頃の正確な暦を知ることができたとしても、現代のカレンダーに直す技量が彼にあるとは思えなかったが、せめて、何月とか、どの地域でどういう種類の桜の咲く頃とかは言って欲しかった。南北に長い日本である、タカの認識で普通の桜でも、東京と北海道では、一ヶ月も咲く時期に差が有るのだ。ついさっき天気予報を見ていたタカには、その覚えたばかりの知識に自信があった。
「・・・うん」
妙に言いよどんで、シュンは困った顔でタカを見つめ返してきた。
分からないと正直に言えば良いのだが、せっかく彼に質問されたことなので、何としても答えたかったのだ。
「・・・分からないなら分からないと言え」
しばらく無言で見つめあっていたが、タカは溜め息を吐くようにそう言った。
「まあ、要するに春だな、春・・・」
片手でカリカリと頭を掻きながら、そう締めくくって居間のソファーに座り込んだ。
床に座ってテレビを見ていたシュンは、訳がわからずボケらっとその横顔を追う。
「何だか知らんが、来月あたり、まとめて休みをくれるとか何とか言われた。・・・春だし、何処か旅行でも行くか」
ぼそりと付け加えられた提案。言った本人はあさっての方向を向いている。
事態が飲み込めないシュンは、まだボケっとタカを見つめていた。
「・・・だから、おまえのバースデープレゼントに、好きなとこ連れてってやるから、考えとけって言ってんだよ!」
照れ隠しに怒鳴られて、その向き直った顔を見つめ直して、パチクリと目を見開いた。
それから数瞬。
「タカ!」
歓喜いっぱいの涙目で見つめるシュンに、タカは慌てて普段は枕になりがちのクッションを引き寄せた。
「タカー!」
予想通りに、手放しでダイブしてきた相手を突き出したクッションで阻止した。
「ばかやろうが! また皮膚焼くぞ!」
精一杯腕を突き出して、抱きつこうとしてきたシュンをブロックして怒鳴る。
桜前線の話題の出る季節にそれほど汗をかくわけもないが、用心にこしたことは無い。
シュンはよく夏場でも勢いで飛びついてきて、痛い目にあっている。
バケモノらしく治りも早いが、皮膚を焼くことに変わりは無い。それ故、タカはクッションを買ったのだ。
「だってー」
口を尖らせてしぶしぶと身を引きながら、シュンは講義する。
タカにもそれは解らなくもない。一緒に暮らしだしてずいぶん経つが、決して触れ合えないこの至近距離には、時々ぶつけようの無い憤りを感じることもある。自分がそんなことを考えているとは微塵も表面には出さなくとも、シュン同様、彼にも不満は多いのだ。特に、こんなふうに手放しで喜んでもらえると、つい口元が綻んでしまいそうになる。だが、そんな顔をすれば、シュンが喜んでさらに駄々をこねかねない。この半妖と暮らすようになってから、随分と顔の筋肉が鍛え上げられた彼なのだ。
「駄目だ。旅行の行き先でも考えて我慢しろ」
自分の気持ちも一緒に宥めて、タカは難しい顔をして見せた。
そして、寒いのは苦手と言うシュンが決めたのが、この南洋の島だった。
海岸から階段を上がり、プールサイドを通って、レストランの喧騒を横目に見て、二人は部屋へ帰ってきた。
夕食は既に済ませていた。
あのバトルは、言わば腹ごなしのようなものだ。
タカが軽くシャワーを浴びて潮を落とし、新しいTシャツに袖を通して出てくると、シュンが昨日のうちに買い置いてあったビールをベッドの上に座り込んで飲んでいた。
目があうと、その飲んでいたビンを差し出された。
タカは無言で受け取って、軽くあおる。
シュンから受け取る分には何のこともないのだが、逆は許されない。
ふと目を向けると、シュンは立てた膝に顎をのせて、ぼんやりと外国語の流れるテレビを見ていた。
長い髪が背からこぼれて足に絡みついている。
「おれ、役に立たないね」
不意に、ポツリと呟いた。
驚いて見つめ返すタカを見ようともせず、視線は訳のわからないテレビに向けられてままだ。
「おれ、強くないし、タカより戦っても強くないし、タカが怪我してても何にもできないし、全然、役に立たないよね」
タカは思わず腕を伸ばしかけ、その衝動を押し止めた。
「なに言ってんだ、今更だろうが」
わざと言ってみると、えへへと笑われた。
「ごめんタカ、おれ、寝るね」
いつものにやけた笑顔に、つい「おう」と答えると、シュンはばさりとシーツを被ってしまった。
何か言葉を継ごうとしたが、その機を逸したまま、タカはしばらくそのベッドの上のふくらみを見つめていた。先程シュンに渡されたビールは殆ど減ってはいなかった。小さく溜め息をつくと、ありそうで見つからなかった言葉を継ぐことを諦め、タカはそのままビールを手にして、バルコニーへと出て行った。
外に嫌な気配は無かった。
こんな所に来てまで、外国産のバケモノに狙われるのは心外だったが、タカがここに着いて最初にしたことは、持ち込めなかった愛用のナイフの代わりのナイフを買い求めることだった。
どうしても、身近に獲物がないと落ち着かない。
何となく可笑しくなった。
シュンのバースデープレゼントのつもりで来たのに、自分は命の遣り取りから逃れられなくて、何故か彼を泣かせてしまった。
「なんなんだろうな」
普段ならば考えもしないような事柄が、日常を離れた途端に妙な形で浮き上がり、互いの関係の不安定さを煽るようだった。
手摺にもたれ、どれくらいそうしていただろうか。
いつの間にか、遠くに聞こえていた音楽も止み、ホテルの庭を照らす照明の数も減って、南国の夜の大気が周囲に満ちていた。
何となく口元だけで笑って、タカは部屋へ入った。
シュンは本当に眠っているらしく、シーツはゆっくりと規則的に上下していた。
少し躊躇ってから、彼はベッドに近寄った。そして、そっとシーツの上から、シュンを緩く抱きしめた。
眠りを妨げないように、起こしてしまわないように、そっと。
そして、静かに部屋を出た。
何処へ行こうと思っていたわけではなかった。ただ、あのまま眠る気にはなれず、時々立ち止まっては空を仰いで、意外に星の見えないことに安心したりしていた。
一緒に住んでいる家と、会社と、シュンの勤めるバーと、その中でほぼ全てが出来上がっていた日常から離れることは、思っていた以上に互いの存在を意識させた。
「まいったな」
プールサイドに立ち、そう呟いたとき、背後に闇の生き物の気配を感じ、一瞬にして肌が粟立った。だが、その気配の既知が、瞬間に湧き出た自分の中の闘争心を押さえ込んだ。
「シュン・・・」
さっきは確かに眠っていた筈だった。それが、いつの間にか振り向いたタカの視線の先に立っていた。
「寝てたんじゃなかったのか」
苦笑いと共に問い掛けると、へへへっと笑い返された。そして、手にしていた大きなビーチタオルを広げ、軽く走って近寄り、タオルを間に挟んで抱きついてきた。
いつもと同じ方法。
一枚の布を挟んだ近くて遠いハグ。
だが、それも一時。
タカは力ずくでシュンを自分から引き剥がした。
そして、驚くシュンをそのままに、するりとプールの水に入ると、振り返って手を差し出した。
「来いよ」
それは、強い口調だった。
シュンは水際まで来たものの、そこで躊躇った。
多すぎる水は、やはり苦手だった。
濡れた手を差し出し、タカは今度は、優しく、静かに誘った。
「来いよ」
明かりの落ちた、入り組んだ形をした夜のプールの一画は、庭に植え込まれた木立に、微かに遮られていた。
「大丈夫だ」
言い募られて、シュンは水に濡れたタカの手をとった。
数時間前に、ナイフを握っていた手を。
水の為か、握られた手に覚悟していたような痛みは無く、そのまま、水の中に入れられた。
目の前に立つタカが、ちょっと笑いながら、それでもまじめに見つめていることに、シュンは自分も笑んで返した。
「目をつぶって」
素直に目を閉じた。
「・・・信じろよ」
そう言って、濡れた冷たい手でシュンの両頬を挟むと、自分と一緒に、ゆっくりと水の中へと引き込んだ。
「少しの間、息止めてろ」
微かに強張る体を引き寄せて、全てを水の中へと沈めた。
そして、その水の中でタカは、自分を慕ってきて、いつの間にか自分も想うようになった、美しいこの半妖に、初めて口づけた。
人気の無いホテルの廊下を、ふたりは自分たちの部屋へ向かっていた。
「うふふふふ」
大きなタオルを巻いたタカの腕に絡みつきながら、シュンはまた嬉しそうに声に出して笑った。
タカは、ひどくばつの悪そうな顔をしながら、耳まで真っ赤になって、シュンを絡みつかせている。
一応拭いたものの、びしょ濡れのふたりは、幸い夜更けのために見咎める者もなく、無事に部屋へ辿り着いた。
「ねえねえ、さっきのさ、お風呂でもできそうだね」
鍵を開けるタカの横で、シュンの声はひどく楽しそうだった。
ドアをあける手が止まり、タカはひどく嫌そうな顔をした。
「却下だな」
そう言い捨てて、さっさと部屋に入って行った。
「なんで、なんで!」
シュンも慌てて後を追って部屋に入る。
オートクローズに閉まりかけたドアの隙間から、タカの声が聞こえてきた。
「プールと風呂の違いだ! 解れ!」
終わり
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