「斜陽の旭」 2


 大地に生きるもの全てのうえに、夜明けは平等にやってくる。薄明に霞む地平線には、昇り来る太陽を圧し止める力はなく、曙光はもうすぐ夜を席巻するだろう。
 日が昇れば世界は光りに満ち、人々は苛酷な戦のときを知る。
 希望に例えられる夜明けであり、その命を食む朝日であった。
 あの日、城壁のうえで一人対峙した朝日を、シャナは荒れ地の上で待っていた。
 革鎧の紐はきつく縛られ、髪は一つに束ねられ、胸元はきっちりと留められている。
 薄闇に霞んで見えはしないが、彼方には大国の軍勢が陣を引いていて、獲物を食らうときを待っていた。あの早馬からわずかに五日で、彼らは軍を揃えて出兵してきたのだ。そのあまりにも速い動きと勢力とに、契約を途中で破棄して逃げ去る傭兵も少なくなく、古都の軍勢はさらなる劣勢を強いられることになった。彼女の部隊からも、数人の傭兵が抜けていたが、咎めはしなかった。すすんで負け戦に加担しようとする方が異常だ。そう、女神への信仰さえなければ。
 そう考え、彼女はひとり、静かに笑った。
 現れはせぬ、女神への信仰を。
 それを知りつつ、捨てられぬ自分を。
 彼女の隊も、他の三つの市中警備の大隊同様、中央の隊に町を任せて布陣の中に組みこまれ、彼女もそれを甘んじて受けてきた。逆らったところで他に手立てのあるはずもない。この小さな古都を中心とした国には、総力戦しかないのだから。
 人の世の荒廃を映すかのように、その畔を随分と縮めた湖の、そこはかつて水底だった。水性の生き物を育んでいたその場所は、今はただの荒れ地であり、旭日の中で生を飲み込み、悼む地へと変わるのだ。
 カイレイはもう、町を出ただろうか。
 シャナは最後に会ったときの事を思い出して、かすかに目を細めた。
「ねえシャナ、…聞きたいことがあるんだけど」
 いつもと同じように彼女の部屋で食事をし、食後の盃を傾けながらの語らいの中で、青年は不意に、真剣な眼差しでそう言い出した。
 なんだい?そう問い返そうと口を開きかけたとき、扉が力強く叩かれた。
 他愛のない触れ合いであっても、二人には楽しい時間なのだ。それを邪魔されるのは少々腹立たしく、彼女は軽く舌打ちして扉へと足を運んだ。
 立っていたのは彼女が信頼をおく副隊長のひとりで、勤務についているはずの者だった。
「…どうした?」
 不審げに尋ねるシャナへ、彼は一通の書簡を手渡した。
「今さっき、届きました」
 それは、前線に出るようにと書かれた命令書だった。
「早馬の知らせでは、湖の向こうでは既に、出兵の用意が整っているそうです」
 それだけを伝えると、彼は軽く会釈をして、自分の勤務へと戻って行った。
 しばらく、彼女は戸口にたたずみ、考えにふけっていたが、聞こえていなかったであろう部屋の奥のカイレイのところまで
足早に戻ると、堅い口調で言った。
「出来る限り早く、この町から離れるんだ」
 急なことに、カイレイは戸惑った。
 理由もなしに故郷を捨てろと言われても、返事のしようがないというものだ。
 それが顔に出ていたのか、シャナは手短に説明をした。
「隣の、あの女神をないがしろにしてる国が責めてくる」
 唐突な事柄に一瞬息を飲んだカイレイだったが、慌てて立ち上がり、シャナに詰め寄った。
「あなたは?」
 その問いに、彼女は苦笑した。
「あたしは、戦士だよ」
 笑って答えたが、成果はなかった。
「大丈夫、死んだりしないって。だから、あんたこそ他国へ逃げ延びていて。生きていればなんとかなるって」
 たたみかけるように話し、なんとか町を出るように説得しようとしたが、カイレイはなかなか承知しなかった。それどころ
か、シャナへ前線に出ないようにとさえ、言いはじめた。
「カイレイ、分かって。どう考えても負ける。そして、彼らが女神に故あるものを残しておくとも思えない。この町は破壊さ
れるんだ。だから、その前に町を出て。…あたしのことは心配ないから。やばくなったら敵前逃亡でも何でもしてくるって」
 少しふざけたその言葉に、青年も微かに笑った。だがそれも一瞬のこと。カイレイは不意に、シャナの体を抱き締めた。
「一緒に行きましょう。生きていたって会えなければ嫌です」
「会えるって。何なら待ち合わせ場所でも決めるか?」
 そんな軽口に、カイレイは抱き締める腕に力を込めた。
 自分より年下でも、剣の一つも振るえなくとも、こんなふうに抱き締められるといつも、男なのだと感じて愛しさが増す。
今も思わず、その華奢な背中に腕を回して抱き締め返した。
 二度と感じあえないかもしれない、互いのぬくもり。
 それは、熱く静かな、一瞬の沈黙。
「会えるから。必ず。そうしたら南海の神殿へ行こう。女神のことも、歴史のことも、世界が生まれたときからの全てのこと
も、聞かせてやるから。だから…」
 懇願するようなシャナの声に、カイレイが微かに身じろいだ。
「…シャナ」 
 言いかけて口をつぐみ、意を決して、再び開いた。
「その石は、歴史の石、なんですね」
 発してしまった問の、答えを待つ間が遠かった。
 思いがけない問いかけに、胸の中の何かが緩んだ。
 シャナはゆっくりと両手を上げ、カイレイの顔を緩やかに挟むと、柔らかく間直に瞳をあわせた。
「歴史の全てを知っている。何人もの女神のことも。全部あげる。あんたに上げるよ」
 囁くように喋りながら、目を伏せ、唇を寄せた。
「カイレイの為に、あたしは生き延びるから」
 触れたぬくもりが夜明けの冷気の中に蘇る。
 あたしは、生き延びるから。
 無事に、逃げ落ちてほしい。
 そうすれば必ず、会えるから。

 昇る太陽が地平線を離れるころ、荒れ地は戦場へと、様を変えた。数からして倍以上の差があったが、女神への信仰心からか、押されながらもよく持ちこたえていた。だが敵にとってはそれでも総力には及ばず、無限の余力が残されていた。
 半数近くは逃げ出したとは言え、百戦錬磨の傭兵たちを交えての軍勢は、数が対等ならば押し返していたところだろう。
 前衛が食われ、シャナたちの属する後衛に至ったのは、昼近くになってからだった。
 交える剣戟の音に悲鳴やうめき声。
 次々と周囲の者たちが敵の刃に倒れる中、シャナは孤軍奮闘を続けながら、敵の中に取り残されぬよう、じりじりと後退を余儀なくされて行く。
 太陽はひどくゆっくりと傾き、戦いの時を早く終わらせようとはしてくれなかった。
 そんな中、急に、敵陣の中で次々に鬨の声が上がった。
 シャナと切り結んでいた敵兵までもが声を上げる。
 その敵兵を切り捨てて振り返ったシャナは、いく筋もの黒煙を上げる町を目にして呆然となった。
 別動隊はいないはずだった。彼らの情報網に、そんなものは掛かって来てはいなかっのだ。
「隊長!」
 いつも一緒に組んでいる、あの副隊長が、敵兵をなぎ払いながら走り寄って来た。彼には殿を任せてあったのだ。
「やられました! 別口の軍勢に、待ち伏せされていたようで、町から逃げようとしていた人達をも押し戻して、町を落とされ
ました」
 隣で剣を振るいながら、早口に伝える。
 シャナは思わず、敵を罵倒する言葉を吐きながら、力任せに相手を切り伏せた。
「隊長」
 自分もまた、目の前の一人を倒してから、上官を呼んだ。
「いってやって下さい。あの文官の青年のところへ。所詮、負け戦です。あとはわたしが引き受けますので」
「…お前は?」
 そう確か、この副官には家族があったはずだ。
「…ここへ来る前に、自分の手で殺めてきました」
 苦笑と共にそう返し、彼女をぐいっと町の方へと押しやった。
「いってやって下さい」
 彼女はそのとき、全てをかなぐり捨てた。
 抜き身の剣を引っ提げ、身を翻して駆け出す。
 一度足りとも立ち止まらず、一度足りとも振り向かずに。

 町の中は戦場より酷かった。
 破壊された建物には火が放たれ、至るところで紅蓮の炎が肌をあぶり、武器をもたぬ者たちが、そこかしこで息絶えていた。
 略奪に残っている敵兵に何度も出くわし、その全てを一刀の元に切り伏せて走った。戦いづめの上に走り続け、息が上がって苦しいかったが取り合わなかった。出合い頭に敵兵の胴をなぐ。酷く苦しかったが、剣だけは手放さなかった。このひと振りだけが、前へ進む道を開いてくれるのだから。
 神殿の書庫へ、カイレイは向かっただろう。彼の一番好きな場所。一番、親しんだ場所へ。シャナもまた、そこへ向かって
走っていた。
 図書館の敷地の入り口で、再び切り結んだ。
 軋む体に剣を振るい、体重をかけて切り落とす。
 思わず膝を折ったが、肩で息をしながらも、剣を支えに立ち上がった。
 建物の窓や扉の全てから、炎がちらちらと舌を出している。
 もう、建物の中には入れない。
 再び膝を折りかけたとき、外階段の下に倒れている人影が目に入った。
「カイレイ!」
 ここまで決して手放さずに来た剣を捨て、よろめく足で走り寄った。
 階段にもたれ掛かるようにして、彼女の愛しい青年はこと切れていた。
 胸に広がる深紅の染みが、帰らぬ命を物語る。
 振るえる腕で、あの時のように抱き締めたが、記憶に鮮やかなぬくもりも力強さも、返っては来なかった。
 全て、あげる。
 この胸の石の記憶も、戦士としての腕も、心も。
 本気だった。
 本当の気持ちだった。
 これまで幾度も愛したが、全てを与えてもいいと思ったのは彼だけだった。
 無邪気な瞳が、男の腕が、旺盛な知識欲が愛しかった。
 生きていてほしかった。
 語りかけていてほしかった。
 ずっと、ずっと…。
 間近で炎が、建物の屋根を崩し始めていた。
 斜陽が破壊され尽くされ、火の海に沈む古都を照らす。
 濃い影に炎が迫り、遠からず霸者となる夜に抗う。
 だがそれも、一時のこと。
 覇を唱えた旭日も、落ちゆき。玉座に座りし夜も、朝焼けに敗退を知るのだ。
 荒れ地には屍が重なり、弔う者もない。
 ならば、放たれた火に燃え落ちる古都の炎がせめて、野辺の送りとならことを。
 失われし全てのことへの…。


 end





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