「break down」
サコミズ自身、少し働き過ぎだという自覚はあった。役職の移動のおかげで、休日返上での残務整理と着任へ向けての仕事が重なっていて、やっと先日、秘書に着いていてくれているミサキユキの計らいで半日は休めたものの、その前も後も、食事を摂る暇さえない状態が続いていた。だがそれでも、家で待つ存在があることで、辛うじて眠るだけとは言え、毎日帰宅はしていた。深夜の帰宅でも、預かり受けた青年は必ず起きて待っていて、迎えてくれる。
彼自身の、自分の家族は、持ったことが無かった。
アストロノーツの世界で、狭い船内で仲間と呼ぶ者達と共に過ごしてはきたが、彼らは仲間で、共に同じ目的の為に歩む同志だった。だが、いま腕の中に抱え込んだ手元にある存在は、大切な預かり物でありながら、自分を頼ってくる、いつの間にか愛しいとも思えるようになった存在だった。その素直で真っ直ぐな眼差しが、何処かで揺らぐことの無いように、支えて行きたいと思う。
疲れた身体をエレベーターの壁に凭れさせて、ぼんやりと足下へと下がって行く、マンションに隣接した暗い森林公園を眺める。
頭の中にはまだ、引継ぎも残務整理も終わらない、開発実験の懸案事項が列挙されていて、落ち着かない。いつもならばこのエレベーターに乗った時点で仕事から、家で待つ、預かり受けているヒビノミライと言う青年のことへと、最優先に向けるべき思考の角度を切り替えられるのだが、今日はどうしても駄目だった。
何となく、息をするのも億劫だと気付いて、そうとう疲れているなと自分で笑い、サコミズはマンションの部屋の扉を開けた。
「・・・ただいま」
息を吐くように言えば、奥から返される「おかえりなさい!」と言う深夜に不似合いなほどの嬉しそうな元気のいい声。
この声に迎えられることを嬉しいと思う。
持ち得た事の無い家族とはこういうものかと、胸の何処かが理解するようで、暖かい。
いつものように、散らかるほど広げられた、地球に関する勉強の跡。その中に座り込んで見上げてくる屈託の無い笑顔に、胸の何処かが暖かくなる。
サコミズもいつものように、脱いだ上着を椅子の背に掛けて、今日の勉強の成果を見てやろうとミライの横へと歩きかけて、不意によろめいた。
視界が斜めにずれて、拙いと思ったときにはもう、一瞬のブラックアウトの中だった。必死に椅子の背に縋って、何とか転倒は免れたが、視界がぼんやりと戻ってきても、両膝を着いたそこから、立ち上がるどころか、動くことすら出来なかった。
誰かが自分を呼んでいた。
酷い耳鳴りと息苦しさに、その声が近くなのか遠くなのかさえ分らない。
「サコミズさん?」
また訊ねるように呼ばれたが、返事を返すことも出来ない。
「サコミズさん!」
声音に焦燥感が混じってきていて、大丈夫だと言ってやらなければと思いながらも、言えずにただ、不意に襲われたこの引きずり落されるような感覚に、抗うのが精一杯だった。
「サコミズさん!」
泣きそうな声だよと、宥めてやらなければと思いながらも、出来ない自分が歯痒い。
自分を呼びながら、肩に手を掛けて支えるようにして顔を覗き込んでくる青年の、その青ざめた表情に、自分の今の状態が見て取れて、これはミサキさんに怒られるなと頭の隅で思いながら、どうにか、言葉を押し出した。
「だい、丈夫、だよ・・・」
笑みを作ろうとしたが失敗したのか、明るい色の髪を揺らせて、ミライが首を振るのが見えた。
「肩、貸して・・・くれ、るかい」
言われている意味が分らないのか、瞬きながらも必死に顔を覗き込む表情に、もう苦しい中で言葉を繋ぐことを諦めて、体を起こそうと足掻いた。
何かに気付いたように腕の下に肩を入れて、支えてくれる動き。
胸の中で礼を言って、自室のベッドまで支えてもらい、倒れ込んだ。
スプリングの揺れさえ苦しい。
「サコミズさん!」
うめいて僅かでも身体を縮めようとする仕草の意味が、この青年にも分るのか、呼ぶ声の必死さは変わらない。
まるでこの場に引き止めるように、腕に掛けられた手の感触が、暖かい。
ああ、暖かいのかと、場違いな感動を覚える自分がいて、少し可笑しい。
銀色の、あの雄大な背も温かいのだろうかと、一度だけ逢った姿が、脳裏を過ぎる。
何とか、おぼつかない動きではあったが、腕に掛けられた手に手を重ねて、小さく宥めるように叩いた。
「サコミズさん・・・」
泣きそうな声だよ。笑んでそう言ってやろうとして、出来なかった。
覗き込んでくる心配そうな顔を見上げて、大丈夫だからと言ってやろうとして、出来ずに、サコミズの記憶はそこで途絶えた。
苦しい感触は、大気圏脱出のときにかかるGの、大地の抱擁から無理矢理離れていくあの苦しさに似ていた。
耳につく、警告音。
大丈夫。システムはオールグリーン。
オールグリーンなのに、消えない警告音。
音。
誰かが自分を呼び出そうとしている。こんな、状況の中で。
音。
呼び出し音。
メモリーディスプレイの着信音。
はっとして、急激な覚醒の中、視界が開いた。
明るい部屋の天井。
朝だと認識する間もなく、サコミズは激しい頭痛に襲われてうめいた。
「サコミズさん!」
直ぐ側で聞こえる、泣きそうなミライの声。その声で、自分の状態を思い出した。
続いている、呼び出し音。
頭痛にうめきながらも、居間の上着のポケットからその音の元を取って欲しいと、腕を伸ばしてミライに仕草で示すと、意味を把握しきれないように瞬いていたが、直ぐに理解して、走るようにして取りに行ってくれた。
<ヒビノくん?>
ポケットから取り出したときに繋いでしまったようで、戻る途中のミライの手の中で、遠くからスピーカー越しに聞こえるのは、思っていた通り、ミサキユキの声だった。彼女には、このヒビノミライと名乗ることになった青年が何者なのか、打ち明けてある。
「ミサキさん! サコミズさんが!サコミズさんが!!」
泣きそうな声で訴えるミライに、ミサキの声も訝しげではあるが、<落ち着いて、ヒビノくん。サコミズさんがどうしたんですか>と冷静に状況の報告を促す。
ミライが、どう答えていいのか分らない様子で、途方に暮れたようにサコミズを振り返って見るので、手を伸ばして、メモリーディスプレイを渡すように示した。
「すみません、ミサキさん。 倒れ、ました」
何とか、小声ででもそう言えば、モニターの中でミサキの、息を飲むような仕草。それから、いつも崩れぬ静かな表情が、一変した。
<だからあれほど、お休みになってくださいと申し上げましたのに!>
叫ぶような非難の声が、痛む頭に響いて、サコミズは顔を顰めた。
<直ぐにドクターに向かっていただきます。きちんと、往診してもらってください。それから・・・、何とかスケジュールを空けますので、こちらは心配なさらずにお休みになってください>
「悪い、ね。今日、一日、頼むよ・・・」
<本日はお休みになられる日です!明日は回復に努められる日です!・・・2日間、スケジュールを空けますので、きっちりお休みになられてください。・・・こちらでは、2日間しか、調整して差し上げられません>
ミサキの声が、最後、小さく沈んでいて、すまないと思う。体調の管理は自己責任だ。だが、ミサキはいつもサコミズの為に休むようにと口煩いくらい言ってくれていたのに、それを聞き入れなかったのは自分だ。申し訳ないと思う。自分を過信していたつもりは無いが、結果こうなってしまえばそれまでだ。
通信の切れたメモリーディスプレイを枕元に落すと、側に立つ青年の、握り締めた手が見えた。
ゆっくりと視線を上げると、予想していた通りの心配そうな顔があって、苦笑が浮かぶ。
「・・・ミライ」
小さな声で呼べば、保っていた表情が崩れた。
今にも泣き出しそうな目が少し赤くて、眠らずに側にいてくれたのだと分る。
小さく手招いて、屈められた身体の腕に触れて、大丈夫だと小さく叩いた。
「着替え、したいんだ。悪い、けど、手伝って」
気付けば昨日のまま、そのまま眠っていたらしく、辛うじてネクタイは緩められていたものの、汗をかいた皺だらけのワイシャツのままで、ドクターの往診を受ける気にはならなかった。
そのドクターは、程なくやって来た。
「過労だね。何か他に原因があるとしても、第一は過労だ。貴方の勤務状況を見て驚いたよ。こんな状況だと分っていたら、私が出勤停止を申し渡していたところだ。まったく、総監自らがこうでは、ガイズジャパン全体に示しが付かんだろう」
歯に衣着せぬドクターの言に、サコミズは痛む頭に顔を顰めながら、まだ着任はしていないので、まだ総監ではありませんと小声で反論したが、第一に休むこと、とにかく休めと言うドクターに、2日しか休めないと打ち明けて、大声で怒られた。
「まったく、これだからガイズの現場あがりは!」
仕事好きもいいかげんにしろと怒るドクターだったが、彼もまた、事情が理解できない立場でもないために、篤と2日の間は何もしないことと言い聞かせながら、軽い点滴と症状への処置をしていった。それから、薬を並べてミライに細かい説明と注意をして、返される青年からの素朴な疑問にもすべて丁寧に答えて、眠りかけていたサコミズのベッドの側に立った。
「甥っ子さんに説明はしておいたから、きちんと、休むことだ」
突きつけるように言って笑い、ドクターは帰って行った。
甥ではないのだがとは、サコミズには言えなかった。確かに、外見的な年回りとこの家に住まっていることからすれば、甥と思われるのが妥当な関係だ。ミサキもそう、ドクターに説明したのかもしれない。
本当の甥はもう、自分よりも年上になっている。
「悪いね、ミライ」
口を潤すための水を持ってきてもらいながら言えば、やっと安心したように笑いかけてくれる青年がいて、ほっとする。
自分に近いところにいる笑顔が、嬉しい。体中が苦しいような中でも、胸の中が僅かにも暖かい。
ナイトテーブルに置いていたメモリーディスプレイが、ミサキからの着信の案内を鳴らしてきた。ミライが代わりに受けて、横になったままのサコミズが話しやすいように持ったまま、ディスプレイを向けてくれる。
<いま、ドクターに状態はお聞きしました。重大な合併症は出ていないようで、安心しました。2日間、しっかりとお休みになってください。それから、ヒビノくんにお願いがあるのですが・・・>
ミライと話したいと言われて、サコミズは視線でミライを促す。
「・・・はい。何でしょうか」
お願いと言われて、戸惑うような声で訊ねる青年に、ミサキは事務的な口調で用件を述べた。
<ヒビノくんは、買い物はできますよね。では、今から言うものを買い揃えて来てください。多分その家には無いものだと思いますので>
スポーツドリンクに始まり、ヨーグルトや玉子、果ては米と梅干まで並べられたそのリストを、ミライが丁寧にここへ来て覚えたばかりの文字で、メモに書き並べていく。
「ミサキ、さん?」
サコミズが切れ切れに、その様を訝って訊ねれば、きっぱりとした口調で秘書の女性は返してくれた。
<私が手伝いに行きたいのはやまやまですが、どうしてもここを離れられません。ですので、ヒビノくんにお願いしているのです。ヒビノくんが何者であっても、動けるのであれば、動いていただきます>
ミサキのあまりにもきっぱりと言い切る態度と、それに答えるようなミライの「はい、頑張ります!」との、役に立てることがうれしいと言う態度に、体調の悪いサコミズはもう、何も言うことは出来なかった。ウルトラマンを顎で使うような事に対して、本人達がそれで良いと言うのだから、何も返せない。
<では、ヒビノくん。戻ってきたら、連絡を下さい。手順を教えますから>
食欲は全く無かったが、話からすると白粥を炊くらしい。食べられるようになったらちゃんと食べなさいと、ドクターにも言われているので、直ぐに食べなくとも、作ってくれるのはありがたかった。
ありがたかったが・・・。
「サコミズさん・・・。ぼくがいない間、大丈夫ですか?」
屈んで訊ねてくる青年に、何とか笑んで、大丈夫だと、小声で返した。
「・・・頼む、ね」
言えば返される、歯切れの良い明るい返答が痛む頭に響いたが、頼られることが嬉しそうな笑顔に、払拭される。
心配しながらも、意気込んで出かけるミライが閉じる扉の音を聞きながら、サコミズは少し苦笑して、それから少し諦めて、誘われるまま、眠りの中へ落ちていった。
end
20話で、トリピーのことを凄く心配する不思議ちゃんがいたので、きっと以前にも、誰かが大変なことになったに違いないと思い、それはきっとサコさんだろう!と妄想して、こうなりました。
そして、ミサキさんは絶対に、サコミズ至上主義な方だと思います。(笑)