「The Time of a Day」

「着きました。どうぞ」
 そう声を掛けられて、サコミズは思考の海から意識を浮上させた。
 外の暗さはガイズジャパンの建物を出たときと同じだが、静けさの部類が違っていた。周囲は明かりの落ちた窓の並ぶ、高層マンションの群れと、緑地帯を挟んで戸建の並ぶ住宅街の広がる街。静寂は同じでも、温もりが違う。
 サコミズを送ってきた車は、マンションのエントランス前へと着いていた。
「ありがとう」
 また、明日の朝迎えに来るという運転手に礼を言い、見送る彼に背を向けて、緑地帯に面して立つマンションのエントランスへと、ガラスの扉を潜った。
 フロントの管理人ももう居なくなった、静かな中に響く、靴音。
 慣れている筈の情景だったが、少し前から落ち着かない要素が彼の囲う腕の中に出来ていて、エレベーターを待つ間、少しだけため息を吐く。来た箱に乗り、最上階ではないが、もう上の階は数えるほども無い階数のフロアへ上がり、キーでドアを開けて部屋へと入った。
 数年前から借りている部屋だが、殆ど寝に帰るだけの上、長い間、宇宙空間を亜高速で飛ぶ実験のパイロットをしていた為に、故郷の親兄弟とは死に目にも会えずに別れていたし、そんな機会も無かったので自分の家族をもつことも無く、気付けばルームメイトを取るような歳も過ぎていて、ここでも独りで好き放題にしていたのだが、今は少し、違ってきている。
 広すぎると思っていた部屋は、空いていたひとつが今は埋まり、誰も待つはずの無かった居間には、少し前までは居なかった青年が、床に広げた大量の資料の中、画像モニターの前に座り込んで、帰ってきたサコミズを振り返っていた。
「ええと、・・・おかえりなさい!」
 少し考えるようにしてから紡ぎ出される、歯切れのいい発音の言葉。向けられる嬉しそうな笑みに、曇りの無い笑みとはこういうものを言うのだろうと、いつも思わされる。
「ただいま。今日は、どの辺を?」
 上着を椅子の背に掛けて、モニターに映る映像と、床の上から見上げてきている明るい髪色の青年とを見比べて、その隣に屈んで、床からやはり広げたままだった一冊の本を拾い上げた。
 相対性理論。
 その見出しに、苦笑が隠せない。
 光の速さに近く動くことの意味など、経験を持ってしても、多くは知り得ない。知ろうとする分だけ、人は引き換えに何かを失うものなのだと、心の隅が理解していたので。
「読んではいけないものでしたか?」
 その表情を見てか、曇りの無い素直な眼差しが、サコミズを見ていた。
「いや、こんな理論のあったことも、知っておくといいね」
 亜高速の移動が可能になった今、既に過去のものとなった可能性の理論がどうなったのか、人類の進む過程の中、知ることにきっと、無駄は無い。
「でも、モニターで映しているのは、塩基配列だね。どんな繋がりがあるの?」
 いわれてはじめて気付いたように、青年はぱちぱちと目を瞬いた。
 よく見れば、開いたままにされているのは、どれも宇宙空間やそこでの滞在、移動に関する実証データーと、その検証と予測の理論書ばかりだった。
 亜光速での移動が、地球の生物の肉体に、どのように影響しているのか。広げられているものを全て繋げれば、今日この青年が追ってきたテーマがそんなところなのだろうという予想は付いたが、本人にその自覚はないようだった。
 サコミズが提出したデーターも、ずいぶん前の日付から並べられているはずだった。
 手に取って、ぱらぱらと捲ってみた。
 馴染みのある数値と背景の書き込みに、手を止める。自分にとってはまだそれほど古いものではない記憶の中にある、それよりもずっと昔の記録とされている、そのデーター。同じ時間の流れの中に居なかった月日。気付けばもう何処にもいない、自分を慈しんでくれた人たちの姿。
 瞬いて、そっとその資料を閉じた。
「サコミズ、さん?」
 呼ばれて、目を向ける。
 曇りの無い、澄んだ視線。
 少し前、以前は部下だった、自分よりも年上になってしまった男から、この青年を預かった。その存在がここへ、この地球へ来ることについては、自分とコンタクトを取ることが可能な存在から知らされていたが、それが、自分の手元に転がり込んでくることになるとは、思いもよらなかった。
 手にしたままの、相対性理論の本。
 何故か自分は、この本を捨てずに移転する先々へと持ち歩いている。
 そんな理論があったことを、それが机上の、理論上の仮説に過ぎない時代のあったことを、どうしても忘れたくなくて。
 自分もかつて、この青年を引き取りに行った先で再会した部下と、同じ時間を共有していた。だが、彼は船を降り、正常な時間の流れの中で、科学者として火星に住まい、家族を持ち、失った。
 何かを得ることを羨んだことは、サコミズにはあまり無い。自分の生きたいように生きてきたので。だが、人はいつか、どこかで、何かを抱えなければならないものなのかもしれない。
 この青年も、歳を取るのだろうか。
 昨日ふと、口にしてしまった。
 だが彼は瞬いただけで、地球上で生きる限り、この仮初の肉体はちゃんと人間と同じに歳をとること。この姿から離れれば、本来の有るべき時間の流れへきちんと修正されて帰ることを、簡略的に話してくれた。
 時間に置き去りにされたり、連れ去られたりはしないのだと。
 この星のアストロノーツのように、取り残されることは無いと知って、どこかで落胆する自分がいた。
 同じ時を、歩むわけではないのだと知って。
 思考が、流れていく。
 自分は何処かで、同胞を求めているのだろうかと考えて、不意に、もう、宇宙には行かないことを思い出す。
 アストロノーツのバッヂは外したからこそ、いまここにいる。ニューヨークでガイズの立ち上げに係わり、裏からはガイズジャパンの支えをしてきた。
 もう宇宙には行かないのに、時間に取り残される同胞を、無意識に求める。
 ・・・相当、参っているのだと、思い至って、苦く笑った。
 ずっと、裏方から支えてきた組織の、総監職への打診を受けて、進退に迷っている自分に、苦く笑う。
 ガイズジャパンが中心で進めている、オーバーテクノロジーの研究も実験も、自分は長く係わって来た。その表沙汰には出来ないチカラを実用化するために、肩を貸してくれている者もいる。だが、長く現場を生きてきた自分に、時間の流れからも取り残されてしまっている自分に、総監職は重過ぎる。重荷を分け合えるような同期の者は、生きていても、もう皆、一線を退いているものばかりだ。彼らは先を行き、自分はまだ、ここにいる。
「ミライは、夕食は何を食べたの?」
 何の脈略も無く問いかけても、不思議な顔ひとつされない。全てを、有るがまま、そのまま受け入れる無垢な色は、全てを包み込む包容力の礎。
「用意して置いてくださったものを食べましたが、それでは駄目でしたか?」
 逆に問い返されて、苦く笑む。
 この青年にとってはまだ、この部屋から外の世界は、本当に僅かしかないのだ。自分が預かり受けた、銀色のあの一族の中の若い戦士にとって、地球は憧れだけを抱いてきた、本当に見知らぬ場所なのだ。
「いや、いいんだ。 ただ、そろそろあの手の味には飽きたかと思ってね」
「・・・飽きる?」
 また、首を傾げられた。
 毎日がこんなことの繰り返しだ。何も無い透明なコップの中に、色とりどりの砂粒をきれいに並べて行くように、知識というものを詰めて行く。だがそのスピードは、生れ落ちたばかりの未発達な脳を持つものとは違い、恐ろしいほどの速さと理解力を持ち得ていた。
 部下だった男の、無くしたはずの息子の姿を持って現れたことを機に、この預かりうけた存在が、いかに人として無垢で無知であるかも知らされた。
 文字のひとつ。
 発音のひとつ。
 仕草のひとつ。
 色のひとつが全て、この存在をこの地で確たるものへと作り上げていく礎なのだと知って、思わず、一歩退いた。
 自分が負わされたものが何なのか。バンの家からの道すがら、話す言葉の内にその重さに気付いて、思わず立ち止まった。
 自分を少し見上げていた、殊勝な眼差し。
 いっとき。
 覚悟は、それで決まった。
 預かり受ける覚悟は、それで。だが、更に大きなものを背負ってくれと打診を受けて、戸惑い、決めかねている。
 矢面に立って、率いていってくれと言われて。
 アストロノーツの現場は小さな世界で、時間の流れにも、見捨てられている。
 だが、あの銀色の背中は振り返って、自分を、自分達を見ていた。
 同じ視線の場所まで来いと。
「・・・あの」
 思考に沈むサコミズへ、言い難そうに、ヒビノミライと名乗ることになった青年が、座ったまま見上げて声を掛けてくる。
 礼儀作法は、もう少し先でいいと思っていた。
「明日は、外へ出ても、良いでしょうか」
 平常であるならば、尋ねられること自体が不思議だ。
 この狭い空間の外には、何億もの人間の世界があり、那由他の生き物の世界がある。外へ出るなと、言ったこともない。だが彼は、自分が人間の輪から外れた存在だということは、無意識にでも理解しているようだった。
「そうだね。色々なことを、肌で知ることも、大切だね・・・」
 視線を合わせて、否は無いと告げる。
「・・・肌で、知る?」
 言い回しの慣用句が解らないらしく、首を傾げられた。説明を加えるべきかと思ったとき、ふと、あることを思い出した。
「・・・ああ、そうだ、明日なら、一緒に来るといい」
 サコミズが思いついて言えば、ミライはただ、会話の行く先がわからずに瞬く。
「視察があるんだ。博覧会会場のね。ちょっとだけ、地球の縮図のような感じだよ」
 外に出て何かを知るには、広く偏った場所かも知れないが、知識から一歩踏み出すには、丁度いい場所かもしれない。
「・・・博覧会、ですか?」
 だがそれも初めて触れる言葉だったのか、返されたのは曖昧な答え。
「そう。博覧会」
 サコミズは静かに、あえて説明を加えずに繰り返した。
 不意に、身の内から湧くように、何処かが羨んで、哀れんでいた。
 行く先の苦を知らぬ無垢と、行く先の苦を知るであろう無垢を。
「久しぶりに、ニューヨークで一緒だった、今度私の秘書になってくれる人とも会場で会うことになっているから、君も会っておいた方が良いしね」
 心の何処かで、負う重みへの共犯者が欲しいと思ったのかもしれない。
「わかりました」
 何故にサコミズ以外の者に会わせられるのか、それさえ聞かずに素直に了承されて、この存在を自分に預けたものたちを、恨めしくさえ思う。
 自分には、荷が勝ちすぎる。
 この存在も。
 総監職も。
「もう、眠りなさい、ミライ。明日は早いから」
 促されて立ち上がる素直さと、学習の跡を広げてそのまま残す幼さが、微笑ましく、哀しい。
 全てがこれからの存在が、既に戦士として軍場へ行くことを決められていて、哀しくて、ひどく愛しい。
 僅か数日の係わり合いの中で、負うと決めた存在は、大切で愛しいものへと昇華していた。
 彼が、現身を解く日など、来なければ良いと思う。
 自分の元で、ただ、人としての存在の確立だけを成して、いつか、自分を残して去って行ってくれれば良いと思う。自分に与えられた、ただ、いつか無くすだけの存在で、ただ、自分の胸だけに、寂寥を刻みつけて行ってくれれば良いと思う。
 この、自分が守りたい、守られている大地の上で。
 ここにいる間はずっと、曇りの無い眼差しのままで。
 ミライのいなくなった居間の床の上から、散らかったままの本や資料を拾い上げて、手にしたままだった相対性理論の上へと重ねていく。
 机上の理の上に重ねられて行く、現の理。
 いつかこの上にもまた、更に上を目指す希望の理が重ねられ、叶えられて先を行く理が重ねられるのだろう。
 ゆっくりと、きれいになった床から目を上げた。そして、いっとき見つめてから、塩基配列の映っているモニターを消した。
 この地に生まれ、生きていく生物全てが持つ、生命の設計図。
 この地に生まれたことを刻まれた設計図を有するものは、何処にいても、いつかはこの1Gの世界へ還ることを願うものなのかもしれない。そんな還る地を、守りたいと思うことは、決して、おこがましい思いではないだろう。
 迷ってはいるが、踏み出す足の行き先は決めていた。
 現場に拘って来た自分には、不釣合いなほどの重荷だと解ってもいた。それでも、総監の椅子は受け取るだろう。受け取って、率いていくことに同意するだろうと、サコミズは己の中に認めた。
 だが、迷いはある。
 この腕の中に囲う、この存在がこの地でいつか戦う日が来るのならば、自分は後方などにはいたくない。一緒に現場に出て、一緒に戦いたいと思うから。
 映像の消えた、モニターを見つめて立っていた。
 机上の理論ではなくなった、その本の上に積み上げられた、理を手にしたまま。
 それは重荷で、自分を現場からは遠ざけるものに違いない。だが、自分はそれを解っていて、それでも受け取って行くだろう。抱え込んだ大切で愛しい預かりものの為にも、自分が立ち上げに尽力を注いだ組織の為にも、それが最良の選択なのだろうから。
 外には、寝静まった暖かな暗い夜がある。
「おやすみ。ミライ」
 ずっと遅れて、全てが静まってからようやく、サコミズは顔を上げて、そう言葉にして、言った。


  end





 正直、これがまともにサコさんを書いた第一作。(苦笑)
 短いネタなのに、書いても書いても何故か終わらない。何故? サコさんについて、書きたいことが多すぎたから!
 自分がどれだけこの人好きか、自覚した一作でした・・・。
 そして、あの、ディレクションルームのミライくんの席や私室に並べられた民芸品の数々に、博覧会を連想して、この落ちと相成りました。