ある日のダンキの受難について/泉州小力 (更なるゲテモノ注意)
長いシフトがようやく終わった。
表通りから一本中の筋に入り、遠目にも見慣れた軒が連なる景色に自然、ハンドルを握る手も軽くなる。
「ミドリちゃ〜ん!」
きっと、おそらく、自分の帰りを待っていてくれているはずの、才色兼備の研究員が纏う白衣姿を思い浮かべ、ダンキはハンドルを抱きしめた。
しかし、
「……げ!カマロじゃん……!」
目指すたちばなの前に鎮座する先客の姿に、その表情も一瞬で凍りついた。
オリエンテーリング団体を名乗るアウトドアな猛士には明らかに不釣り合いなワイルドなボディ。
ましてや、自称NPO法人の車両にアメ車の代名詞を持ってくるなどありえない。
こんな馬鹿な車の主はダンキが知っている中ではもちろん一組しかいない。
「……あンの変態コンビ……!」
荒々しくハンドルを切って(ちなみにここは一通)、百円パーキングを目指した。
「ナニしに来やがった!変態コ……!」
「サバーキ!オマエ今マデドコイテタカー?!」
「ヘブゥオ!!」
ガラス戸を開いた途端、死角から飛び込んできたジャンピング・ニーがダンキの顎を割った。
「ナンダ、おマエダンキカァー…用ナシネー」
「謝れよ!!」
ついさっき蝶のように舞い蜂のように刺した張本人は、ひどい東南アジア訛りで這いつくばるダンキをさげずむように一瞥し、真っ赤なタイトミニの裾をわざとらしく伸ばしてみせた。
「おマエ今パンティみタネー」
「見てねぇよ!!つぅかもうここドコだよ!!ミドリちゃん!ミドリちゃんはドコ?!」
「ココたちばなネー、お客サン指名ハゴッセンエンヨー」
「もうたちばな影も形もねぇよ!ミドリちゃん!」
「もうダンキ君!うるさい!」
「ミドリちゃん!」
ようやく現れた女神の怒鳴り声に、縋り付く勢いで駆け寄った。
「聞いてよ!こいつ人にいきなりジャンピング・ニーかましといて金取ろうとすんだぜ!」
「あーもうわかったわかった。でも今、彼女とってもナーバスなの。運がなかったと思って諦めて、ね?」
「ね?ってミドリちゃん可愛いよ!…って、アイツのナーバスと俺の顎とどっちが酷いよ!割れるかと思ったんだよ?!このまま真っ二つになったらどうすんだよ!俺がチョイ悪になっちまってイイのかよ!」
「あら、いいじゃない。イタリア人」
「…ミドリちゃん…!」
「おっ客サンウルサイネー」
「だからここフィリピンパブじゃねーっつーの!」
「もう!ダンキ君いい加減にしなさい!石割君かわいそうでしょ?!」
「かわいそうって面かよ!この世紀末覇者が!」
「…!…ミドリー!ダンキヒドいコトいうヨー!」
「コラ!ダンキ君!」
ついにミドリから「めっ!」、とデコピンをお見舞いされて、哀れダンキは仕方なく膨れっ面でそっぽを向いた。
「大丈夫よ。ダンキ君は照れ屋さんだから可愛い女の子には素直になれないだけなの」
「…ホントカー?デモダンキとはステディニなれナイネー」
「ならねぇよ!つぅかもうコイツ女の子じゃねぇし!オカマじゃん!」
「…!…ミドリー…」
「ダンキ君は黙ってなさい!」
とどめの一喝を浴びて、すごすごと引き下がるダンキにミドリはフンと鼻を鳴らしてから、涙目の友人に向き合った。
「ごめんね。もう大丈夫だからね」
そうしてベリーショートの髪を「いい子いい子」とクルクル撫でてあげる。
そんなミドリの優しさにポロリと涙を零す彼(女)の名はイシュワリー・ワンコンチャイ・チャチャイ・ウェラポン。
長いのでイシュワリーを縮めて「石割」と呼ばれている、れっきとした猛士のサポーターだ。
かつては祖国タイでムエタイチャンピオンにまで上り詰めたものの、子供の頃からの夢だったハリウッド女優になるため、ニューハーフに転身。その後パッポンストリートの女王として夜の街に君臨し、いよいよ銀幕デビューを飾ろうと日本までやって来たところ、
オーディションの途中で何故か猛士にスカウトされて今日に至る…という大変数奇な人生を歩んでいる。
「ミドリー…サバキもウモドテコナイカー?」
身長180センチを越える長身は、スレンダーな肢体のおかげで厳ついという印象はなく、むしろモデルのようなしなやかさを持っている。そんな長い脚を器用に折り畳んで、客席の椅子に小さく座り、心許なさそうにミドリを見上げて、また涙を零す。
「そんなことないわ!石割君をこんなに泣かせて帰るに帰れないだけよ」
「…デモもうフツツカニなるヨ」
二日なのかよ!と心の中でツッコミながら、それでも普段はサバキの隣で、さながら夜の女王のごとく振る舞う関東最凶サポーターをこれほど弱らせた一大事とは何だったのか、ダンキの食指がムズムズと動いた。
「なーなー!サバキのおっさんナニやらかしたの?俺全然話しわかんないじゃん!」
ついさっきミドリに「ハウス」と命じられていたので、二人からやや離れたテーブルに着いたまま声をかければ、今まで親身に慰めていたミドリも「そういえば私も知らないわ」とケロリと言い出す始末だった。
ミドリちゃん…あんたのそういういい加減なところも可愛いよ!
「アレはフツツカマエのコトネー」
外野の様子など意に介さず、石割は遠い昔を思い出すように二日前のことを話し出した。
「サバキピンサロイクヨ。諭吉スグナクナル。フツツカマエもユキチモテイコウとスルカラ、ムエタイ・サーブでボコボコネ」
要するに、ピンサロ通いで家の金を持ち出すサバキをムエタイ・サーブでお仕置きしたらしい。
「デモ、ソレからサバキカエテコナイネ…」
「…………へぇ」
「…………そぉ」
(なんだよ、ただの痴話喧嘩かよ)
二人とも、口には出さないが顔にはたしかにそう書いてあった。
くだらないとは思っていたが、本当にくだらなかったので、ダンキは声もかけられなかった。
さすがのミドリも呆気に取られているらしい。
「サバキコノママカエテコナイト諭吉ダレがモテクルネ!国のオトウトにウンドウクツもカテヤレナイヨ!」
「結局カネかよ!つぅかお前の弟っていくつだよ!」
「カネとてもダイジヨ。オトウトはジュウゴバンメノオトウトネ」
「………あぁそう」
もう返す言葉もなかった。
「で、でもそんな理由じゃ、サバキさんもその内ケロっとして戻ってくわよ!そう!お腹空いたら!」
「ミドリー…アナタヤサシイネ。ダンキはハクジョー」
「さりげなくヒトを陥れるな!」
「ま、とにかく理由を聞いて安心したわ。そんなんじゃくよくよ悩むよりサバキさんを信じて待ってあげればいいじゃない。ね?」
聞きたいことを聞けてすっきりした顔になって、ミドリは石割の肩を叩いて励ました。
「じゃあ、私、下に戻るから。石割君もよかったら落ち着くまでここでゆっくりしていってね」
軽やかにそう言い残して、店の奥に消えた。
「ウン、アリガトミドリ」
確かに、そうかもしれないが、本当にそれでいいのだろうだろうか。
一緒に残されたダンキはミドリの背中を見送る石割の、あまり元気のない笑顔を複雑な思いで眺めた。
「……ナニジト見テルネ。ダンキ、ホレタカ?」
「な……!馬鹿!誰がお前みたいなオカマに惚れるかってんだよ!」
「ウソツケー!カオ、アカイヨ?」
「……………!」
からかわれているのだとわかって、必死になって顔を擦る。
そんなダンキを見てケラケラと陽気に笑う石割の表情には、ついさっきまでの切なさはもうない。
いつもの、ダンキの大嫌いな質の悪いオカマの石割だった。
「…なぁ、なんでサバキのおっさんなの?」
その問いは、ふと口をついて出てきた。
問われた石割もいったい何のことだとポカンとしたし、ダンキ自身も自分が何を言っているのかわけがわからなくなって大いに慌てた。
「い、今のなし!別に聞きたかないし!な!」
そんなダンキを、石割はからかうでもなくしばらくじっと見つめていた。
それこそ、さっきみたいにからかってくれれば良かったのに、見つめる石割の表情はやけに穏やかだった。
世紀末覇者とかオカマとか、散々な言い様をしているけれども、かつてはパッポンストリートを席巻した美貌の持ち主だということは、不本意ながらダンキも認めている。
その石割の、濃い赤の口紅を引いた唇がふわりと微笑みの形にほころんで、思わず心拍数
がグンと上がってしまった。
「サバキは…ワタシのトムヤムクンオイシイイテクレタネ。タクサンタベテ、諭吉イパーイモテクルネ」
「結局諭吉かよ!!」
落ちるべきところに落ちた答に、思わずツッコンでしまう。誤魔化されたという気もしないではなかったけれども、石割がそれで楽しいのならまあいいかと、ダンキも一緒になってちょっとだけ笑った。
その時だった。
「………サバキ!」
突然、石割が席を蹴るように立ち上がって店の入口に駆け出した。
一瞬遅れてダンキがガラス戸の向こうに感じたのは、確かに二日間行方不明だった(らしい)サバキの気配だった。
「よう」
はたして、扉の向こうに現れた中年男は間違えることもなくサバキその人で、石割はためらうことなくその身体に飛びつき、抱きつかれた方もしっかりとその身体を抱き留めてやった。
「…サバキ…」
「なんだ?そんなに寂しい思いさせたか?悪い、な?」
首筋に埋めた顔を上げさせ、切れ長の瞳いっぱいに溢れさせているのであろう石割の涙を拭うサバキの、何とも言えない甘い表情に、ダンキは妙な敗北感さえ覚えて思わずそっぽを向いてしまった。
──ていうか、俺のジャンピング・ニーは何だったんだよ
「……サバキ」
「……い、石割?」
ふと、石割の声が低くなったような気がした。
サバキの気配にも焦りの色が感じられて、ダンキは脊髄反射の出歯亀根性で二人を振り返った。
「石割さん?!ちょ…ナニお辞儀してんの?ねぇ!ワイクルー踊らないで!ねぇ!」
それまで甘く甘く甘えていたサバキを突き飛ばした石割は、今、精神を集中させてムエタイ選手が試合前に舞う神聖な舞、「ワイクルー」を踊っていた。
「モンドウムヨウネ!アンタ諭吉ドコモテタカ!」
──…やっぱり諭吉なんだ…
瞬間、ダンキには確かにゴングの音が聞こえた。
「ちょっと!タンマ!コレ!コレ見て!石割!」
閃く右ハイキックをかろうじてかわたサバキは、ジャケットの内ポケットから小さな箱を取り出し、猛る戦士の前に跪いて差し出す。
「…コレ?」
「ああ、コレ。今日、ほら…お前が俺のサポーターになってくれて十年…だろ?」
無精髭の目立つ口元を悪戯っぽく吊り上げて微笑む姿は、女王に傅く(かしずく)騎士のように見えた。
「…サバ…キ」
差し出された箱に伸びる石割の指が、遠目にもそれとわかるほど震えていた。
箱の蝶番が、パチンと鳴って蓋が開かれる。
「明日からもずっと、お前のトムヤムクン飲ませてください」
ポム ラックン サバキ
今にも消え入りそうな小さな、掠れる声で聞こえた石割の言葉はダンキには何のことだかわからなかったけれども、たぶん「愛してる」とかそんな感じなのだろう。
跪くサバキに覆い被さるようにして抱きつく石割と、これ以上ないくらいデレデレと笑み崩れるサバキの幸せそうな様子に、ダンキは今ごろになってズキズキと痛みだした顎をさすって机の上に突っ伏した。