「いってらっしゃい」
「サバキの足引っ張るなよ」
 山間の沢に通じる少し開けたその場所で、送り出す声の後に火打石の音が響く。
「ああ」
「はいッス。いってきます」
 返す声は慣れた調子の短いものと、煩いくらい元気なもの。
 返事と共に素早く前に出した手を一振りして、ギターに似たものを肩に担いだ二人は、そのまま、くるりと背を向けて小走りに朝の光の中に消えて行った。
 見送って、木立の向こうにその姿が消えると、ベースキャンプの端に残された二人は、それぞれ小さく息を吐いた。
 この先は自分達の手の届かないところ。
 自分達の既に退いてしまった領域のことだと心得ていて、無事に戻ってくることを祈り、小さく、息を吐く。
 朝靄は既に晴れたが、気温はまだ低く、大気は涼しい。
「まあ、二人がかりだ。大丈夫だろう」
 ザンキが言葉とは裏腹な調子で心配だと言わんばかりに、呟くようにそう落とすと、側で石割が短く笑った。
「あ、すみません。でも、ザンキさんは相変わらずお弟子さんのこと大事にしていらして、いいなぁって思ってしまったもので」
 苦虫を噛み潰したような顔で振り向くザンキを恐れるでもなく、青年はにこやかに笑って、「そうでしたね。もうお弟子さんじゃありませんでしたね。すみません」と、わざと違うポイントを謝る。
「今日は二人ですから、あの人の心配もしなくて済みそうです。僕も安心していられます。ありがとうございます」
 わざわざ丁寧に言い足して人の良い笑顔を向ける青年に、年長の元鬼はまだ、嫌そうな顔を向ける。
 ザンキとしては、安心どころか不安だらけと言いたいところだ。
 自分がサポートする元弟子は、未だ独り立ちして間もない。鬼の修行期間も二年と短かった為、現場の経験は鬼として多いとは言えない。それが補佐とは言え、ベテランの鬼と共に現場に出かける後ろ姿に憂いたように、足を引っ張るのではないかと不安になっていると言うのに、この青年はそれを、逆撫でするように言う。しかも今回の摩化魍はかなり育っていて、一人では手に余るだろうと言うことで鬼二人の出動になったのだ。
 不安で、心配だった。
「心配はいらないと思いますよ」
 石割が笑うようにそう言って、並んで見送っていた車の側からすっと離れた。
 魔化魍退治に出かけた鬼の留守を預かるサポーターにも、仕事が無いわけではない。探索に出したDAの残りの回収や、広げた地図の整理、朝食の片付けや、テントの中の整理。一通り片付けるには、それなりの労力を必要とする。
 石割が車の後ろに回り、開け放したままになっているツールボックスのような収納箱に近づき、手にしていた当たりディスクを静かに、決められた場所に収納する。
 石割の動きは能役者のようだと表現したのは鋭鬼だった。
 その後にはお決まりのどうでもいい駄洒落が続いたが、その言葉はこの青年の一挙手一投足を如実に表していた。
 ディスクを仕舞った青年は、しばし空を見回し、木々の足元へと視線を投げてから、続いて戻ってくるDAのないことを確認して、キャンプテーブルの前へと猫のような足音で移動した。
「片付けは僕がやりますから、そちらのディスクをどうぞ。うちよりもずっと枚数が多いですから。助かりました」
 朝食に使った皿が出しっぱなしになっていたテーブルに手を掛け、きれいに平らげられたそれらを見て、片付けるかと少し手を伸ばしかけたザンキに、青年はそう声を掛ける。
 二チーム合同のベースキャンプは、こんなものの量も二倍になる。
 どちらの鬼も朝から良く食べた。
 魔化魍の対策を打ち合わせながら、そこに二人のサポーターが時々口をはさむと言うのに、止まることなく話しながら食事を続けていた。
 サバキさんの飯、やっぱり美味いッスね。
 一通り打ち合わせが終わると、トドロキの話はサバキの料理を褒めることにばかり集中する。
 キャンプでの簡単な朝食だというのに、何処にそんな褒めるところがあるのかと問いたくなるが、実際、サバキが短時間で作ってみせた朝飯は美味かった。
 本来はサポーターの仕事であるはずの食事の用意を、サバキは譲らない。
 石割に作らせるなんて、食材がもったいないと言うのがもっぱらの主張だ。いくらほとんどレトルトに近いキャンプでの料理でも、小食の石割に作らせるのは気の毒だと思うのか、本当にサポーターの腕ではレトルトさえ美味く出来ないと思っているのかは定かではないが、サバキは魔化魍退治に出たときでさえ、料理だけは自分でする。
 四色揃ったDAのボックスの前で、破損や汚れを一枚一枚確認しながらザンキは、まだ戻らない地区に放った数と合わせていく。
 鈴の音のような音を立てて、青磁蛙が一匹戻ってきた。
 元々がザンキの使っていたDAである為か、ハズレであった自分の仕事が返ってきた事で終わったことを知っているのか、蛙は大きく跳び上がり、ザンキの前でくるくると丸まって、一枚のディスクへと戻った。
 朝の山間に聞こえるのは、鳴き交わす鳥の声と自分達の作る音だけで、隣の谷へと出かけていった鬼達の音は、もう、聞こえない。
 だが以前は長く鬼であった身には、これだけ人の少ない場所であれば、鬼の気配は少々離れていても感じ取れる。ましてやそれが、つい先日まで弟子として傍らに置いてきた存在であれば、なお更だった。
 DAを選り分けながら、ザンキは半身で若鬼の気配を追い続ける。
 乱れなく、力強く続いて行くその気を追い、若い同僚の言った「心配はいらない」と言う言葉を、少しだけ引き取った。
「すみません。ちょっと、休みます」
 不意に、石割がそう言って、広げてあったディリクターチェアに座り込んだ。滑るような動作はそのままだったが、切れが落ちている。
「何か食うか?」
 ザンキはその姿を見て声を掛ける。
「いいえ。大丈夫です。スポーツドリンクが有りますから、それで」
 肩で息を吐いて言う様に、少し、眉を寄せて、それでも、それ以上は何も言わず、またDAの整理に戻る。
 石割も、元は鬼だった。優秀な弦の鬼だったが、ただ一度の敗戦で復帰ができなくなり、元の師匠であるサバキのサポーターになった。命があるだけ幸運だったという状態からの生還は、鬼としての道と共に、持久力というものを奪い取っていた。元鬼とは思えぬほど小食で痩せているくせに、それでいて、この青年は元鬼であることを髣髴とさせる、鬼としての鬼気だけは失わずにいる。
 夜遅くに到着し、早朝からの出動前作業に関わっていたサポーターは、椅子に掛けたままペットボトルを呷る。そんな仕草も、能役者と言われる動作の中にあって、ぎこちなさが一つもない。
 全てのDAを回収し終えて、ザンキも隣の椅子に座った。
 元弟子が帰ってきたときの着替えは、本人が揃えて行ったので用意する必要もない。体力馬鹿の元弟子と同じペースで行動するのは、流石にきつい。
「そっちのDAも、取り敢えず箱に収めておいた。何か食うか?」
 ミネラルウォーターのペットボトルを引き寄せながらまた訊けば、「いいえ」と言う返事と共に、礼を言い、それから「トドロキさんのおやつが減っては大変です」と笑って返された。
 だがその笑みも軽口も、直ぐに遠くを見つめる眼差しの下、引き結ばれた口元の下に消えた。
 この青年が何を見ようとしているのか、ザンキには分っていた。
 気配を追う眼差しは、自分と同じかも知れないと、目を逸らして水を呷る。
 鳥の鳴き声と、微かな風の音。
 それだけの中に、取り残されたような自分達と、遠い鬼の気配。
 ふと、石割が顔を上げた。
 ザンキも少し眉根を寄せる。
 少し強く感じた鬼の気は、変化の瞬間を表し、ザンキにはそれが、微かな雷の閃光と共に感じられる。
 今回の魔化魍はヤマアラシで、もう里に下りそうだという報告に慌てて出てきたくらい、育っている。石割がディレクターチェアの肘掛を握り締めるのが視界に入り、心配なのは同じだと、また思って水を口にする。
 不意に、気が揺らいだ。
 ザンキの隣で青年が、弾かれたように立ち上がった。
 追っている鬼の気が違うというのもあるが、それ程のことにザンキには感じられなかったが、石割には何かが分ったらしい。
 いっとき、ザンキの振り仰いで見ている中で、立ち上がって身を硬くしていた青年が、きつく椅子の肘掛を握って、ゆっくりと座りなおした。
「大丈夫・・・」
 小さな呟きが聞こえて、落ちた。
「轟鬼さんが一緒だから。大丈夫」
 俯いて目をつぶり、自分に言い聞かせるように言う様が酷く、苦しそうだった。
 轟鬼の気配は、あの一瞬以来、揺るがない。
 裁鬼は最近、負けが目立ってきている。夏の魔化魍の季節で、復帰したばかりの上に不得手な相手だったとは言え、長くならしてきた鬼としては少し、気になるところだった。それに比べて轟鬼は、やっと一人での現場に慣れてきて、結果が上向きになってきたところだ。登り坂と言うところだ。
 正反対の状態ともいえる二人が、同じ現場に立つ。
 あのベテランは複数での行動の経験も多い。
 あの新人は、一歩引いて力を振るうことを知っている。
 鬼の気が遠くから力強く響いて来る。
 心配するような気配は何も感じられず、その地を叩くばかりの強い鬼の気は、ザンキに羨むような感情さえ沸き起こした。知らず知らずのうちに、言うことを聞かなくなった右膝に手を当てて、現場に出て、弦楽の武器を振るっていた感覚を呼び起こされて、遠い気配に集中する。
 弧を描くように、離れたそのポイントから、音の波動が膨れるように広がった。
 ザンキの隣で石割が小さく息を吐くように声を上げた。
 肌に感じられる、音の波動。
 烈雷の波だとザンキは感じて、少しだけ口元を緩めた。
 ベテランは新人に、花を持たせてくれたらしい。
「終わったみたいですね」
 石割が、笑みを含むような口調で、息を吐くように言う。
 ザンキもああと短く返して、少し笑む。それからふと、石割の手が肘掛から離れているのに気付き、今の声音からも強張りの解けていたことに気付き、今まで交わしていた会話のこの青年声が、いかに緊張していたかを知り、思わず見つめた。
「なんですか?」
 自覚がないのか、青年は自分を見つめる年上のサポーターを見て、不思議そうに首を傾げた。
 強張っていたのは、元師匠の身を案じてか、それとも元鬼としての自分と同じように、現場の感触を思い出してか。
 ザンキの眼差しに瞬く表情には、もう、あの張り詰めた感触は無い。
 自分が育てた鬼よりも年下だと、ふと気付く。
 少々荒削りに整えられているのは轟鬼と同じだが、轟鬼よりも鋭利な印象の強い顔に、薄く浮かぶ安堵感を自覚もせずに向けられて、ザンキは小さく苦笑して何でもないと遮った。
 もうすぐ戻ってくるであろう鬼達のために、ザンキは椅子から立ち上がる。
 まだ昼前でも、朝食をあれだけ食べて出かけたとしても、自分の元弟子は返ってくれば直ぐに、必ず何かないかと探しはじめるに決まっている。取り敢えず、繋ぎになりそうな、石割におやつと言われたものでも揃えておくかと、立ち上がって歩いた。
 足の下で小石がジャリジャリと音を立てる。
 後ろでやはり椅子から立ち上がる気配がしたが、足音は恐ろしく小さい。
 能役者のような仕草の青年が優秀な鬼だったことは、ザンキも直に知っている。鬼になって独り立ちしてから一緒に現場に出たことは無いが、修行時代から頭角を表していた石割は、裁鬼の自慢の弟子だった。海辺の現場で一緒になったとき、師匠をサポートする様を見たが、実際にザンキさえ舌を巻くような手際と洞察力を見せた。あのまま鬼であったのならば、最強の弦の鬼の名は、石割が奪って行っただろうと思う。そして、現場に出たまま、連絡を絶った石割を探しに行ったのもザンキだった。
「ただいまー」
「ただいまッス!」
 少々くたびれた感のある声に、必要以上に元気な声が続いて、鬼が二匹帰って来た。
 首から上だけ変化を解いた裁鬼が、頭を掻きながら下生を分けて斜面の木々の間から現れる。その後ろで、担いだ烈雷が跳ねるような勢いで、轟鬼が満面の笑みで手を振っていた。
「お疲れ。花、持たせてもらって悪かったな」
 キャンプ地に足を踏み入れた裁鬼を迎えて、ザンキが肩に手を置いてそう言うと、年長の鬼は少し顔を顰めて、弦楽の武器を担いでいるのとは反対の手の親指で、くいっと後ろを指差した。
「お前、あれ育て過ぎだ。庇われちまったよ」
 そう言って、瞬くザンキの肩を反対にポンポンと叩いて笑った。
「ザンキさーん!」
 轟鬼が駆け寄ってきて、裁鬼は笑いながら離れて行った。
「ああ、お疲れ。ちゃんと決まったみたいだな」
 肩を叩いてやれば、「あ、解りましたか!」と照れたように言って、「ばっちりッス」と親指を弾いて示すのを、図に乗るなと肩を押す。
 へへへと笑う上背のある元弟子の頭を抱えたくなる衝動を堪えて、連絡の為に現場の詳細を聞こうと口を開きかけたとき、後ろで声が上がった。
「裁鬼!」
 石割の怒声が響く。
「そこに直れ!」
 ザンキと轟鬼が驚いて振り向く中、二人を気にすることも無く、石割が元師匠に向かって、自分の目の前の地面を指差していた。
 裁鬼ももう一組の元師弟を気にする様子も無く、頭以外は鬼の変化のまま、頭を掻きながら指差された地面に直接胡座をかいて座る。
 その前に、石割はぴしりと正座をして座った。そうしてみると、その姿勢の良さと仕草から、本物の役者のように見える。
「出てくる前に、あれ程怪我をするなと言った筈です。挙句の果てには轟鬼さんに庇ってもらうなど、言語道断です。解っておいでですか!」
 丁寧な口調で、それでも逃げを許さぬ厳しさで諭すように言う元弟子の言葉を、年長の鬼は頭を掻きながら「ああ」とか「うん」とか言いながら、面倒くさげに訊いている。
「怪我は、何処に」
 厳しい口調で問い詰めれば、鬼は黙って腕を差し出した。
 既に傷は完治しているように見えたが、周囲に着いた血は拭いきれていない。
 その傷痕をじっと見つめて、それから、石割はすうっと息を吸った。
「昼食は僕が作ります。苦情は受け付けません。一言でも文句を言うようでしたら、帰ってから腕立て三百回を要求しますので、そのつもりでいてください」
 そう言ってから、青年はすっと立ち上がった。
「石割ぃ」
 裁鬼を置いて立ち去りかけた、痩せた姿が立ち止まる。
「何か食えよ」
 胡座をかいて座ったまま、青年の元師匠が杞憂を載せて声を掛ける。
「ええ。そうします」
 貴方が無事に帰ってきましたから。
 そんな言葉が続けて聞こえたような気がした。
「・・・相変わらずですね」
 ふと、轟鬼が小声で呟くように言うのが聞こえて、ザンキは少しだけそちらに視線を流した。
「ああ、そうだな」
 やはり小声で返せば、「俺には絶対できません」と続けられて振り返った。
「俺だったら、正座してますよ・・・」
 まだ胡座をかいて座ったままの裁鬼を見つめて言う顔が真剣で、ザンキは笑った。
「安心しろ」
 言えば視線を向けられる。
「俺なら有無を言わせずぶん殴る」
 説教などしないと言えば、きょとんとした表情が俄かに歪んで、轟鬼は泣きそうな顔で一歩引く。
 それが可笑しくて、ザンキは今度こそその頭を強く抱えて離した。
「着替えて、石割を手伝ってやれ。それなら裁鬼も石割りも文句は無いだろう」
 間近で顔を覗き込んで、どんどんと背中を叩けば、煩いくらい元気な了承が飛んできた。
 聞こえていたらしく、裁鬼が軽く手を振って寄越した。
 そう言えば、現場の詳細を聞くのを忘れていたと思い出し、着替えにテントへと入って行こうとしている轟鬼を呼び戻そうとして、思い止まる。
 鬼はもう一人、反省を強いられているのがいた、と。
 ジャリジャリと小石を踏みながら、ザンキは胡座をかいて見上げている鬼に近づく。
 悪いがもう少し、着替えるのは後にしてもらおうと思いながら。



 終





まあ、こんな感じで、時々書きます。(苦笑  書くの遅いんです。スミマセン)