「また、こんな時間まで寝ている・・・」
 呆れたように、呟く。
 息を吐くのと一緒に、そう声に出してやっと、布団の中の長身がもぞもぞと動いた。
 自分のサポートする関東支部最古参の鬼が、勝手に入ってきた気配にも鈍感に眠り続けていることに少し腹を立てて、石割は剣の有る声音で言ったのだが、言われた本人は気にした風もなく、寝癖の付いた癖の有る髪の下から、ぼんやりと目を開けて見上げてきた。
 確かに、今日はシフトの入っていないオフの日だ。シフトを全て駆り出して、それでも手が足りないような緊急のことでも起きないかぎり、現場に出るようなことはない。だが、だからといって身体を怠けさせていて良いわけではない。疲労困憊の極みにある訳でもない限り、丸一日休めばそれだけ、身体は現場の感覚を忘れていく。現場に出れば、生活のリズムなど無いに等しくなるが、それでも、日の中を生きる生き物である限り、朝の時間に目覚めて動き出すことは大切な習慣だ。
 日の光の中に生きるものであるのなら。
「・・・何だよ。まだ九時だぞ。スーパーも開いてない」
 ごそごそと布団の中から這い出すようにして出てきて、結局またその布団の上に座り込んでサバキは、寝ている和室の隣の居間にある時計を目を眇めて見て呟く。
「現場では目覚ましも無しに夜明けから活動する人が、何を言ってるんですか・・・」
 ため息を吐きながら言い差して、手でサバキを追い払って布団を畳みにかかる。
「現場で早く起きてるんだから、オフの日にゆっくり寝てれば平均取って丁度いいと思うんだがなぁ・・・」
 小声で言われて、石割はため息を吐き、やっと布団の上から追い出した元師匠の背中を、ぐいぐいと和室から遠ざけた。
 元弟子のサポーターに追い立てられて、反論にも取り合ってもらえずに仕方なく、長身の鬼はぼりぼりと頭を掻き掻き、ふらふらと洗面所へと向かった。
 障子を開ければ、薄暗かった畳の部屋へ光が差し込み、開け放した掃きだしの窓から外気が入り込んで室内の大気と入れ替わる。居間兼食堂のテラス窓も開けて、取りあえず空気の入れ替えをして、石割は部屋の片付けに取り掛かった。ソファーの上には積まれているのか散らかっているのか判別しにくい、猛士の書類と新聞と雑誌が乱雑に置かれている。これでよく必要なものを探し出せるものだと毎回のように感心しながら、選り分けて別々の山に分けて整える。それから床の上に散らかっている書類や雑誌も掻き集めて選り分け、台所の飲みかけで放置されているペットボトルを3本処理する。それから、和室や他の部屋を廻って床に放置されている衣類をすべて集めて洗面所へ行き、シャワーを使っているサバキが脱ぎ捨てたものもついでに拾い上げて、洗濯機の中へ放り込む。その足で掃除機を取りに行き、居間の真ん中へ据えてこれからの心意気を示した。
「石割ー。勝手に洗うなよー」
 サバキが少し嫌そうな顔をして文句を言いつつ、腰にバスタオルを巻いただけで廊下へ出てきた。
 髪から雫が滴っている。
 それを見て石割がかなりきつく眉根を寄せると、サバキははじめて自分の拭いていない髪に気付いたかのような顔をして、慌てて脱衣所へと戻って行った。
「今日のトレーニングメニューです。午後からトドロキさんと道場に行くことになっていますから、素振りはナシです。もうあまり時間が有りませんから、気を抜かずに真面目にこなして来てください」
 トレーニングウエアに着替えたサバキと、シリアルとコーヒー、フルーツの簡単な朝食を一緒に摂りながら、石割はメモに書いたメニューを提示する。
 こんな簡単な食事さえ、絶対に石割には用意させないサバキは、渡されたトレーニングメニューに目を通して渋い顔をした。
「お前さぁ、何か最近のメニューの組み立て、きつくないか? 嫌がらせか?」
 現場での敗けが増えてきているこいることへの、嫌味のようにも取れる割増された組み合わせに、言われた青年は、嫌がらせですからと、痴れっと応えて、シリアルのボールを引き寄せた。
 可愛くねぇなと言う声を聞き流す、痩せた小柄な青年の前には、ほんの少量の食事しか並べられていない。それが石割に一度で摂取できる、限界なのだ。鬼として魔化魍と刺し違え、一度死の縁にまで落ちた青年は、生き延びる代償として、多くのものを死神へ差し出すことになった。
 鬼としての自分。
 成人男子としての平均的な体格。
 並外れた持久力。
 現場で、魔と対立するだけの力量。
 鬼であった、自分。
 それでもゆっくりと、普通の三倍の食事量を詰め込むサバキと同じだけ時間をかけて食事を終わらせると、食べ終わったそのまま、新聞を手に取って読もうとする師匠の襟を掴んで食堂椅子から引きずり立たせて、トレーニングに追い出す。
「僕はこの部屋の掃除をしなければなりませんので、監視できませんから、独りでもきちんとこなしてきて下さいね」
 言い置いて、ドアを閉めた。
 外から、あー、とか、うーとか唸るような抗議のような声が聞こえたが、いつもの事と無視して、石割は食事の片づけから取り掛かった。
 小さな公園に面したマンションの一階の部屋へは、日差しを遮るものは何も無く、遅い朝の光が素直に差し込んできていた。

 午後の日差しが穏やかに降り注ぐ中、一応は午前中のトレーニングを終えたサバキを助手席に乗せて、石割は乗り慣れた車体を駆って、静かな流れの川を横切った。
「サバキさーん!」
 待ち合わせをした川沿いの地区にある道場の前には、既に自分達の使う車と色違いの車体が停まって待っていた。銀と緑とに塗り分けられた車体に寄りかかって立ち、何やら喋っていた二人が音と気配に振り向いて、そのうちの長身の男が、嬉しそうに手を振って寄越す。
「おう。早いじゃないか」
 助手席の窓から身を乗り出して後輩に手を振る助手席の鬼へ、危ないから止めて下さいと注意して、停まっている車の隣へ寄せて停めた。
「お世話になります」
 サバキが先に降りて近寄ると、トドロキががばりと頭を下げた。
「おう。手合わせヨロシクな」
 その頭をバシバシと叩くサバキを、横でザンキが迷惑そうな顔で見ているのを運転席から見止めて、石割はまた溜息を吐いた。
 トドロキの師匠であるザンキは今でも酷く、既に鬼として独立した弟子を可愛がっている。あまり構うと怒られますよと注意したのは、最近のことだ。
 だがその時に、僕もやきもちを妬きますからとは、石割りには言い足せなかった。
 そう思い返して、また溜息をつく。
 平日の昼間の道場はガランとしていて、板張りの床ばかりが目立つ。
 剣道の防具をつけて向かい合うサバキとトドロキを、道場主で猛士の歩に属する師範とザンキと並んで、石割りは見守った。武道は空手を主に修めているザンキの下で二年間修行をしていたトドロキは、久々に握る竹刀だと喜んでいたのが少し可笑しかった。石割自身は、サバキに弟子入りしてから、修行の合間に剣道を習い出したので、大した腕前ではないが、目の前で打ち合うレベルが、かなり高いものだということは解った。
 見慣れた、滑るような竹刀の動きを見せるサバキに対して、トドロキは力で押すように薙ぎ払うように切り込んでくる。
 相反するような、同じ太刀筋の強弱のようにも取れる打ち合いに、素足の滑る音と防具の音が重なる。
 板間に姿勢を正して正座したまま、石割はそっと、隣のザンキを窺った。
 膝を庇って、崩れた姿勢で座るかつての鬼は、自分の弟子のはじめて見るらしい姿に、少しばかり眉根を寄せて見入っている。
 知らない、よく知っているはずの者の姿。
 石割はここの師範と打ち合うサバキをよく見ていた。兄弟子達と打ち合うのも見たことがあるが、全く違う気を持つ鬼の誰かと打ち合うのを見るのは初めてだった。最初の一太刀が音を立てた直後から、互いの力量を見極め出したころからじわじわと、鬼同士の気が薄く流れ出してぶつかる様が、鬼を知る者には解かる。手加減無しにぶつかる様が、現場の気のようでいて、対抗する魔の無いことで、薄く感じる。
 風を切る竹刀の音と共に、薄暗い道場に光るようにうっすらと弾ける気。抜き胴の最も深く近寄ったその一瞬に、ぶつかって光るように見えて、ザンキにも解るのか、目を細めて見つめる姿を隣に見て、石割はやっと、視線を正面に戻した。
 派手な音を立てて、トドロキが転がった。
 サバキの竹刀を避けようとして踏み止まれ切れずに、バランスを崩したらしい。
「ってー!」
 だが、床に転がったトドロキは、肩や頭ではなく、足の先を押さえて声を上げた。
「あー? 何だ、鈍ってんなぁ」
 サバキがその様を見て、笑うように言い、師範も可笑しそうに笑った。
 竹刀を持つのは久しぶりだと言っていたトドロキだから、素足での踏み込みも当然久しぶりなのだろう。剣道を始めたばかりで真面目に稽古をしていると、足の裏の皮が剥けることがある。久しぶりのトドロキの足裏も、そんな状態なのだろう。
「では、今日はここまでにしましょう」
 師範が笑顔で間に入り、鬼たちはどちらも面を取って向き合った。
「ありがとうございましたッ!」
 相変わらず必要以上に元気な声が、サバキの声に重なる。
「サバキさん、強いッスね!」
 頭から手ぬぐいを取り、それをきちんと畳みながら、トドロキが嬉しそうな声を上げる。
「お前もな。ブランクある割には良いじゃないか」
「ええ、良い太刀筋ですよ。ときどきここにもいらっしゃい」
「えっ、いいんですか! ありがとうございます!」
 先輩と師範とに褒められて、嬉しそうな声がいっそう跳ね上がる。防具を抱えたまま飛び跳ねそうな勢いに見えて、周囲の苦笑をかった。
「ザンキ。こいつ結構強いぞ」
 サバキが軽い調子で弟子を褒めると、その師匠は少し眉を上げて、それでも少し嬉しそうに、「意外だけどな」と応えた。
「ええー。俺なんか全然ですよ。サバキさんこそ、会社にいるとき、国体まで行ったんじゃないんですか?」
 会社と、トドロキが表現したものがなんなのか、石割は知っていたが、他の者の口から聞くのは初めてで、少し、瞬いた。
 この道場主の師範も、同じ所の出身だ。サバキを引き抜いたのも彼で、トドロキは同じ所ではないが、同じ職業の出身だ。
 歩の出身のザンキや石割とは違い、いまここに居る現役の鬼はどちらも、猛士とはかかわりの無い社会から鬼の世界へと入ってきた。仕事と言うものも、少し偏ってはいるかも知れないが、普通に社会人として生活していたのだ。
「俺か?俺の竹刀捌きが国体向きじゃないってのは、今ので解っただろうが。無理に持ち上げんな」
 長身の最古参の鬼は、やはり背の高い後輩の鬼の頭を抱えて、篭手をはめたままの手でぐりぐりと短い髪を掻き回した。
 ザンキが隣で眉を寄せているのが見えて、石割は胸の中でまたそっと呟いて溜息を吐く。
 他所のお弟子さんを、あまり可愛がらないで下さいね。他所の師匠さんに怒られますし、僕もやきもちを妬きますからと。

 サバキがザンキとトドロキを夕食に誘ったが、残念だが明日からシフトに入るからと断られて、未練がましくまた今度誘ってくださいねと言うトドロキの運転する車を道場前で見送って、二人はサバキのマンションへ戻ってきた。
 傾き始めた陽が、フローリングの床に斜めに差し込んできていた。
 帰りに食材を買い込みながら、夕食を一緒に食べて行けと言うサバキの言葉に甘えて部屋に留まっていた石割だったが、自分の師匠であった鬼が台所に立っている間は何もすることが無いので、冷蔵庫の隅で古くなったパンを見つけて、小鳥に与えることにした。
 雑草だらけのマンションの庭は、公園に面しているせいか、街中でありながら小鳥がよく来る。
 鬼のサポーターでありながら、その鬼には絶対に食事の支度を任せてもらえない青年は、時々、こうして小鳥に餌を撒いて時間を潰す。
 シフトがきつくなったせいで、なかなか道場へは顔を出せなくなっていたので、今日はサバキにトドロキに地稽古の相手をしてもらって竹刀を握らせてやれて良かったと思い、細かく崩したパンを雑草の間へ放る。
 部屋の隅にある、小さなサイドボードの上に飾られている写真立てに、西日が当たって浅く跳ね返た。
 四枚の写真には、それぞれサバキが、独立させた彼の弟子、別れた女と共に写っている。今は他の支部に在籍している石割の兄弟子達の写真の裏には、もう一枚、鬼の変化の姿で写る写真も入れられている。
 石割の写真も有る。
 その裏にはやはり、彼の無くした鬼の姿が、写し撮られて仕舞われていた。
 パンくずを放って、舞い降りる小鳥をぼんやりと眺めた。
 このマンションの奥の部屋は、石割が弟子となっていた間、部屋住みとして使用していた部屋だ。
 サポーターになったばかりの頃、サバキはしつこく彼にまた一緒に住むようにと言ってきたが、石割は断った。
 甘えきってはいけないと、自分を律したくて。
 指先から離れるパン屑が地面に落ちるのを待って、小鳥が寄る。
 今日の道場では、自分に打ち込み稽古をつけてくれる時のサバキとも、師範を相手に地稽古に励む時のサバキとも、違う気を感じた。
 薄く弾けていた、鬼の気。
 薄暗い道場の中で、板張りの空間に眩しく感じていたのは、自分だけではないとザンキを盗み見て確認したのに、抑えられない何かが、石割の中からあふれる。
 パンを千切る指が震えた。
 現場を、酷く遠く、恋しく感じる。
 鬼としてはもう戻れない、その場を、強く、想う。
 震える指が、動きを止める。
 西日の中、じわりと流れ出した鬼の気に、小鳥がいっせいに飛び立った。
 羽音が耳について、神経を逆撫でる。
 同じ傾いた光の中で、晴れやかな笑みを見せる写真立ての中の、一葉。
 黒く長い影が、床を伝って壁を舐めて部屋の奥へと伸びる。
 その中へ、くたびれたジーンズの、裸足の足が踏み込んだ。
 躊躇いもせずに踝までを影にのまれ、止まることなく進み、足の付け根までをのまれ、胸までをのまれてなお、浅く両手を広げて、後ろから抱きこむ。
 呆然と鬼の気を溢れさせる石割の小柄な身体を、サバキの長身は後ろから、両腕で緩く包み込んで抱きしめた。
「すずめに餌をやるんだろう。追い払っちまってどうすんだよ」
 いつもと変わりない、穏やかな口調。
 料理をしていた濡れた手が、石割の震える手の上に重ねられる。
 ゆっくりと、押し戻すようにして押さえられていく鬼の気。
「ちゃんと呼吸しろ」
 穏やかに言われて、微かに震えて大きく息を吸った。
 西日が黒く長く、重なった影を落とす。
 水に冷えた手のひらから伝わる穏やかな気が、背から伝わる温もりと胸の上で混じる。
 長く、息を吐いて、俯いた。
「・・・サバキ、・・・さん」
 何時ものように呼び捨てに仕切れなかったことが、自分の心情を露土していて、石割は後ろから抱きしめられたまま、声を落とした。
「僕が落ちたら、貴方が、狩って、下さい」
 宗家の仕事だと、イブキに狩られるのは嫌だと、言葉を落とす。
「ああ。俺が狩に行ってやるよ」
 事も無げに、決まり事を曲げてでも願いを聞いてくれるという言葉に、さらに俯く。
「だがな」
 サバキが続けた。
「後先考えなくなっちまった全力のお前に、俺が勝てるわけ無いだろうが。お前を狩には行ってやるけど、狩に行って俺は、お前に食われるから」
 当然の摂理だとでも言うような口調に、俯いた視線の先で、足元から延びる影が滲んだ。
「こんな涸れた鬼、食いたくなかったら、落ちるな」
 揶揄する言葉。
「落ちるなよ」
 静かに重ねられて、きつく目を閉じた。
 しばらく。
 いっとき。
 いつの間にか雑草の茂る小さな庭に、小鳥が戻ってきていた。
 石割の手の中から、サバキがパン屑を千切って緩く投げ与えれば、落ちた地面に寄って来る、小さな影。
 石割も、ぎこちない指先で、パンを千切った。
 夕暮れの、荒れた庭先に、小さな小鳥の群れ。
「師範がな、お前に打ち込み稽古に来いと言ってたぞ」
 何気ない口調。
「・・・ええ。そうします」
 いつものように、応えられたと、思った。
 パン屑を放る。
 舞い降りて寄って来る、小さな鳥。
 夕暮れのいっとき。
「今日は、泊まっていけ」
 腕を緩めて言われて、離れていく手をぼんやりと眺めた。
「・・・はい」
 その指が最後のパン屑を投げるのを眺めながら、ぼんやりと応えて、ふと、我に返って振り返った。
 サバキが嬉しそうに、自分を見下ろしていた。
 少し乱暴に抱き寄せられて、髪をかき混ぜるように頭を撫でられて抗う。
 何も言わず、にこにこと笑って自分を抱え込む最年長の鬼に、石割も少しだけ笑った。
 少しだけ、写真立ての一葉に似た、表情で。



 終





なんか、やりすぎました・・・。汗汗  段々、捏造が酷くなってきています。 そして、剣道の知識は有りません。大汗