穏やかだった風が、急に強くなった。
散らせたばかりの魔に凝っていた物が、枯葉に還り、風に舞い上げられる。かなりの大型に育ったバケガニだったため、散り行く枯葉の量も多く、風が何かを訴えるかのように、歓喜するかのように撒き散らせて、裁鬼と石割の視界を覆う。
余韻を引く弦の音。
舞う木の葉。
乾いた葉擦れの音と混じって、遮断される時間と空間の一瞬。
一瞬の、停滞。
ザクリと、河原の砂利を押し分けて刺さる音がして、現実が戻ってくる。
「ったー」
舞い散った枯葉の向こうから、息を吐くような声が上がって、裁鬼の赤褐色の姿が、突き刺した閻魔に凭れて肩で息をしているのが石割の目に映った。
「あー、しんどい」
もう一度ため息を吐くように言って、裁鬼は鬼の面を解いた。
「大丈夫ですか?」
河原から一歩退いた林の中で見守っていた青年は駆け寄って、どかりと座り込んだ裁鬼の横で片膝を付く。
「ああ。まあ、何とか」
答えながら、長身の鬼は腕を上げて自分の背中を示す。
「どんな感じだ?」
気の抜けたような物言いだったが、石割は素早くその背中へ視線を向ける。バケガニの体を裏返す時に、第一歩脚が当たったのは見えていたのだが、裁鬼の動きに怪我をしたような変化は無かった為、掠った程度だろうと思っていたのだが、自分では見えない背中の様子を尋ねてくることからして、違和感があるのかと心配になり、少し焦って目を走らせる。だが、違和感は胸から繋がる飾弦の一部が切れていることだけのようで、そう告げれば、「それくらいなら、一度解除すれば解消するか」と今度こそため息と共に言われて、告げた本人も「そうですね」と安堵の息を吐いた。
地元の歩の元に神隠しの報が入ったときには、既に最初の神隠しから5日が経っていた。データーと状況から、かなり大きく育ったバケガニと見込まれたが、こういう力で押し切って清めるのに適したトドロキは、生憎と山の中へヤマアラシの警戒に出ており、バンキは試験中と言うこともあって、シフトが明けたばかりのサバキにお鉢が回ってきたのだ。装備の積み替えもせぬままに、出現警戒調査の現場からそのまま、バケガニの現場へとやってきた。その前が警戒調査であったため、実際に退治には出ていないとは言え、テントで寝起きをする現場が続くのは、かなり辛い。その最後の締めが大型のバケガニとなれば、どちらかと言えば技で押すタイプの最年長の鬼には、きついものがあって当たり前だった。
側で石割が見つめる中、閻魔を刺した横に座り込んで、いっとき呼吸を整えていた裁鬼だったが、やがて、その場にいても休めないのだという事にようやく気付いたかのように、のろのろと起きて立ち上がった。
「石割ー」
「はい」
「俺はゆっくり帰るから、先にベースキャンプに戻って、撤収の準備をしていてくれ。・・・今日は絶対、家で寝る」
弱々しくも決意を秘めた口調に、その鬼の小柄なサポーターはいっとき瞬き、それから、苦笑と共に立ち上がった。
「分かりました。撤収を始めていますから、気を付けて戻ってきてください。事務局への連絡も済ませておきますので、あなたが戻られたら直ぐに出られるようにしておきます。くれぐれも、途中で倒れたりなどしないようにして来てください」
上着の裾を引っ張って踵を返しながら、石割はそう言ってもう一度、肩越しに裁鬼を振り返った。
「気を付けて来てくださいね」
念を押すように言えば、閻魔を支えにして立つ鬼が、小さく手を上げて同意を示した。
小柄な青年は、身を翻して林の奥へ戻り、ベースキャンプへと急ぐ。今回の魔化魍は、このところの相手の中でもずば抜けて大きかった。なのに、犠牲者が増えるのを懸念して、応援を頼んでいる暇がないと言い、サバキは単身で退治に出たのだ。連続シフトの仕上げに持ち出された苦闘。疲労困憊していて、何の不思議も無い。テントで休んでからの方が良いのだろうが、本人が家で寝ると言っているのだ、早々に帰りつけるようにしてやりたかった。
ベースキャンプに戻って、ディスクを回収チェックして、装備一式を畳んで車に積み込んでいく。
音式神のボックスを積み込んでいるところで、裁鬼が戻ってきた。
急いで助手席へ導き、着替えと毛布を手渡す。
残りの備品をカーゴルームへ詰め込んで閉じ、事務局へもう一度直帰の連絡を入れてから、さすがに自分も疲れているなと、石割は溜息を吐いて携帯を閉じた。
運転席へ戻れば、助手席ではサバキが既に毛布に包まってうとうとしていた。
起こさないように、なるべく静かにドアを開閉したが、エンジンを掛けるセル音は抑えられず、音と気配でサバキが目を開けた。
「悪いな」
石割が何かを言う前に、小声でそう言って、また目を閉じる。
「・・・いいえ」
やはり小声で返して、ギアをドライブに入れてサイドブレーキを外した。
お前も疲れてるのに、運転させて悪いな。
短い一言の中に込められていた、それだけの言葉。
分かっているから、そんなことはないと、静かに押し返す。
自分は倒れるほど、疲弊しているわけではないからと。
胸の内で返して、車を出した。
砂利敷きだった林道が、舗装されたそれになり、ハンドルやアクセルの調節にも、それ程揺れを気にしなくても良くなる。
サバキは助手席で、眠ったままだ。
起こしてしまわないように気に掛ける運転も、少しだけ楽になる。
誰かに頼ればいいのだ。
こんなに疲れ切ってしまう前に。
いつも思い、頼りたくないと自分も思うから、言えない。
見栄を張って、まだ行けるからと歩き出す背中に疲労が見えても、自分の持分の責任は果たしたいと、同時に語ってくるのを知っているから。
だから、言えない。
本当に駄目だと思う時にしか、口を出せない。
自分が、そうだったから。
途中のサービスエリアで休憩を入れて、眠気覚ましに買ったばかりの缶コーヒーを飲む。
毛布の中で、サバキが身動ぎをした。
見れば、眠そうに目を開けて、毛布の下から手を伸ばしてきている。
「・・・くれ」
喉が渇いたのならミネラルウォーターを出しますよと言ったが、「くれ」ともう一度繰り返されて、甘い缶コーヒーを渡す。
一口飲んで返してきて、年長の鬼はまた毛布の包まって目を閉じた。
普段、コーヒーに砂糖は入れない人だと、付き合いの長い石割は知っている。自分は砂糖の入っていないコーヒーは飲まない。そのことを知っているはずだと思って、嫌ならば飲まなければいいのにと、返されたコーヒーと眠たそうな顔を見比べて思い、ふと、サバキがそれだけ疲れているのだと改めて気付く。無意識に糖質の摂取をしたがっているのだ。
サバキが石割の缶コーヒーをよこせと言ったのは、体の欲求に従っただけだ。
考えてみれば、警戒調査の現場からそのまま、途中で補給もせずに出てきた。更なる犠牲者の出る前にと、現場に入ってからもろくな食事もせずに捜索に動き続けて、退治に至った。栄養補助食品のブロックを齧り続けての強行軍だ。食事量の少ない石割ならば、今現在も一時的にでもそれで保てているのだが、鬼に成るサバキはそう言うわけにもいかない。鬼に成って魔化魍と亙りあった後の、エネルギーの消耗感は激しい。石割にも経験のあること故に理解できて、気を回せなかった自分を疎ましく思った。早く帰りたいと言う、そこにばかり気を取られていた。
「飴食べますか?」
後部座席のバックを探りながら声を掛ければ、サバキがうっすらと目を開けた。
石割を見上げて、魚のように口を開ける。
「ご自分で口に入れてください!」
いくら疲れているからとはいえ、その自堕落振りに少々声を上げて、それでも石割は、眠そうな鬼の口にオレンジ色の飴をひとつ放り込んでやった。
エンジンを掛けなおして、サービスエリアの駐車場から車を出す。
とにかく、早く帰りたかった。
自分もかなり疲れている。不意に、休息の取れない場所に止まっていることが馬鹿馬鹿しく思えてくるくらい、疲れている。帰っても家の中に何も無いが、倒れこんで休むことだけは許されるのだ。
そう思って石割は、帰り着くための運転にだけ気持ちを向けた。
高速を降りて都内を縦断し、そのまま南下する。途中渋滞に巻き込まれて、疲労から普段は決して口にしないような悪態を吐きそうになりながらも、何とか自分達の住むエリアへ戻ってきた頃には、夜も遅くなっていた。
サバキの自宅マンションの駐車場に車を入れ、石割は眠り続けていた鬼を起こして助手席から追い出した。直ぐには覚醒しきれないで文句を言う長身の鬼をマンションの入り口方向へ押しやってから、自分は車の後ろへ回る。自分も相当疲れているとの自覚があり、荷物など全て放り出して休みたかったが、仕事柄、性格柄そうすることも出来ず、最低限の装備や着替えだけを降ろそうとハッチを開けて、それでも、思わず利用手を突いて溜息を吐く。
「退け」
不意に後ろから声を掛けられ、横から手を伸ばされて、慌てて振り向いた。
先に自宅へ上がれと押しやったはずのサバキが、側に立っていた。
「先に部屋に上がってろ」
言いながら、資料一式とデーターの入ったボックスに武器、着替えの袋をカーゴルームから引き出して足元に並べる。
いっとき、唖然として見つめてしまった石割だったが、我に返って一番手近な場所に降ろされていたデーターのボックスを掴み上げた。
「あなたこそ早くに部屋へ戻って休んでください。ずっと眠り続けていたくらい疲れているんですから。これは僕の仕事ですから手を出さないで下さい」
眠っていたからこそ、少しは回復してこうして手伝いに来たのだとは分かっていたが、自分の仕事を譲れないのは石割の性分だった。助手席で眠っていた間、ずっと運転をしていた石割に対するサバキの気遣いなのだとは分かっていたが、どうしても譲れない。現場へ出て行くことへ繋がる、自分の居場所である、肩書きの受け持つ領域だから。
「無理するな。俺もだが、お前、足元ふらついてたぞ」
カーゴルームを開けようとして、バランスを崩したのを見られていたと知って、石割はいっとき、眉根を寄せて手を止めた。それから、打って変わった乱暴な仕草で、カーゴルームのハッチを閉じた。
「そうですね。あなたに言われたくはありません。手を出さないで下さい。僕の仕事です」
意地になって遮ったが、サバキは気にする様子も無く、ひょいと脇から、着替えの袋と資料一式のバッグを取り上げて、さっさとマンションの入り口へと歩いて行ってしまった。
石割は慌てて車のロックをかけてその後を追う。身長差はそのまま歩幅に現れ、走らずに出遅れた分を取り戻すのは難しく、長身の背中に追いついたのはエレベーターに乗る必要の無い一階にあるサバキの部屋の前だった。部屋のキーは、現場で退治に出たときに紛失しないように、車の鍵と一緒のキーホルダーに収められている。サバキは荷物を抱えたまま、石割を待っていた。
鍵も持たずに先に着ている姿に溜息を吐いて、石割は黙って鍵を開けた。
何日か振りの自宅に、やれやれといった様子でドアを開けたサバキがふと、動きを止める。
覗き込んで石割りも、いつもの現場詰めの後とは違う空気を感じて、瞬いた。
「上がれ」
玄関に荷物を入れたら、そのまま数ブロックだけ離れた自分のアパートへ帰ってひたすら眠るつもりだった石割だったが、サバキに促されて靴を脱ぐ。
揃って居間に入って、明かりを点けた部屋の中を見回した。
「・・・ねえさん、来ていたみたいですね」
小ぎれいに片付けられた部屋を見て小さく呟けば、返される小さな同意。
料理は好きだが、片付けと掃除は苦手だと言い切るサバキの部屋は、大抵石割が片付けに来ている。世話を焼いているというよりは、自分が料理は苦手だが散らかった部屋では落ち着かない性分だからなのだが、シフト前はどうせ空ける家を片付けようという気にはなれず、いつもそのままで出てくる。それが、いまは綺麗に片付けられていた。
部屋に残る残り香のような淡い気は鬼のものではなく、鬼に寄り添い、その身を支える者のもの。
サポーターもベテランの域になれば、鬼でなくとも魔の気配は感じ取れるようになるし、魔に対抗する気概が確たるものとなり、独特の気を纏うようになる。
部屋に残されていたのは、そんなベテランサポーターの消えそうになっている気だった。
石割が鬼として独り立ちしていた短い間、サポートをしていてくれた女性で、サバキの別れた妻のものだ。いまは、九州支部でサポーターをしている。
テーブルに残されたメモを取り上げて、サバキは簡単に目を通して石割に渡す。特別なことは、何も書かれていない。いつものように、作り置きをして冷凍庫に入れた料理の解凍方法や、勝手に買い込んで詰め込んだ日用品の使い方、それと、洗濯物の扱いに対する小さな小言が女性らしい柔らかな文字で書かれていた。
「昨日まで、待っていてくれたようですね・・・」
呟くように言えば、また小さく返される同意。
メモの終わりには、ペンを置いた日付と時間が記されていた。
丁度、出現調査の現場からそのまま、バケガニの現場へと移動して、ディスクの展開を始めた頃だ。
「残念でしたね」
口にすれば、同じ短い応え。
目を向ければ、サバキは部屋の隅に置かれた小さなサイドボードの上の、いくつもの写真立を眺めていた。
裁鬼が独立させた弟子達の写真と、現場での実地訓練の面倒を見たサポーターの写真。どれも、裁鬼が後進の指導に当たった者たちの写真だった。そして、その中に混じる、この場に淡い気を残して、昨日まで部屋の主の帰りを待っていてくれたベテランサポーターの写真。一箇所、用意されているだけで空いている空間があるのは、ここに並べたいと思いながらも、言えずにいる者がいることも示していて、その全てが、鬼として現場に立つ裁鬼を知る者の在ることを知らせていた。
「まあ、仕方ないな。あっちも忙しいんだろうし」
頭を掻きながら、ため息を吐くようにして少し笑うように言うサバキに、石割は少しだけ眉根を寄せた。
「僕は、会いたかったと思っています。仕事のこともいろいろ聞きたかったし、話もしたかったので。できることなら今からでも、あなたに追いかけて行ってもらいたいくらいです」
少し強い調子で言い切れば、サバキが不意に笑って、その場で床に座り込んだ。
「冗談言うなよ。今から九州まで行ったら、過労で死ぬぞ、俺は」
笑いながら言う言葉の響に、口にすることができた石割と同じものを感じて、思わず「できることならと言いました」と小さく反論した。
現場から帰ってきたばかりなのに、綺麗に片付いている部屋。
会えずに待っていてくれた人の気配。
石割が少しだけ負い目を感じ、裁鬼の次に憧れていた人の気配。
いつもと違う現場明けの空気に、どちらも少しの間黙り込んで呼吸した。
「石割ー」
サバキが疲れきった声で呼びかけてきたのに、やはり疲れた声で「何ですか」と返す。
「冷凍になってないもの、なにか書いてないのか」
石割の手にしているメモの中に、直ぐに食べられるものはないかと尋ねられて、ため息を吐きながら、一度読んだリストを思い出す。
「冷蔵庫にキッシュと肉じゃがとマフィンが入っているそうです」
「あー、ラッキー」
のろのろと立ち上がって、サバキはキッチンへと向かう。
いつも、何も無ければ空腹などは目をつぶって取り敢えず眠ってしまうのだが、あるのならば食べたいと思うのが人間の心理で、この部屋にいたベテランサポーターはそんなこともちゃんと理解していてか、小分けにされた料理は冷蔵庫で、温められるのを待っていた。中にはきちんと、小食な石割用のパックもあって、思わず抱え込んだ。
二人で冷蔵庫を覗き込み、眠るのに負担にならない程度選び出してレンジにかけ、水を片手に黙って食べた。
肉じゃがとマフィンという、どうにもアンバランスな組み合わせだったが、気にせずに食べる。
「石割ー」
「はい」
「もう、今日は泊まっていけ。お前を帰すのは面倒だ」
何がどう面倒なのかは解りかねたが、疲れきったところに食事をしてしまって、既に動くのも億劫になっていたので、素直に「泊まります」と返して、最後のマフィンを口に放り込んだ。
テーブルもキッチンも片付ける気力が無くて、綺麗にしておいてくれた人に悪いなと重いながらも、二人してふらふらと和室へ向かい、布団を引きずり出す。
よく干された布団はまだ、暖かな日の光の匂いがした。
一組出して、思わずその上に座り込んだ石割の隣に、サバキが倒れ込んで来る。
「こらサバキ。もう一組出しますから、手伝ってください」
のろのろと言ったが、腕を掴まれて、押し止められる。
「いらん。とにかく、先ず、眠る」
言いながら、そのまま本気で眠りに入ってしまったサバキに、石割も半分目蓋を落としたまま溜息をついて、結局やはりその隣に横になって、掛け布団を引き上げる。
シャツの袖が掴まれたままで、動けないからだと自分に言い訳をして、長身のサバキの横で一緒に目を閉じる。
少し眠って目が覚めたら、もう一組布団を出そう。
日の光の匂いのする布団をもうひとつ引いて、眠って、目覚めたらキッシュを食べる。
素直に追いかけて行きたいと言えない見栄っ張りと一緒にキッシュを食べて、休暇を取って会いに行ってこいと促そう。
自分の前では格好つけたって、駄目なんだと分かっているのにと、言ってやろう。嫌だと言ったら、飴を放り込んでもらうために、車の中で金魚のように口をあけていたことを言いふらすぞと脅して。
長身に寄り添って目を閉じて、眠い中で少し笑う。それから。ふと気付いてまた、この部屋で待っていた人に悪かったなと思う。
シャワーぐらい浴びてから布団に入ればよかったなと思いながら、石割も隣にある深い呼吸に合わせるように、眠りに落ちていった。
終
何とか書き上げましたが、微妙だ・・・。かなり微妙です。なんだか、むさ苦しいー!