「斜陽の旭」



 天空に散りばめられていた無数の星々が、天と地との境目から侵食し始めた薄明にのまれ、消えて行く。淡い光りに飾られていた漆黒の空はその暗さを失い、無音に力強く拡がる夜明け
に屈し、移ろっていく。
 先刻までの霸者の退位に、世界は静寂を守ったまま、微かな大気の流れだけが時の停滞を否定し、新たな霸者が玉座に着くことへ、無言の称賛を投げかけ、刹那の勝利を称えていた。
 地平線を走る曙光が、城壁の上に立つ人をその同じ目線から照らし、冷えきっていた空気は僅かに暖められながら、纏わり着くように流れて行く。
 視線の先にあるものは、彼方にきらめく水面の反射光だった。
 その畔もかつては城壁の足元まで来ていたのだが、今は彼方へと去り、汀と城壁との間には、荒涼とした大地が横たわるようになっていた。
 城壁の上の人影は、僅かに細めた視線を、朝日に輝く湖面から荒れた大地へと落とすと、ゆっくりと腕を上げ、纏め上げていた髪を解いた。
 豊かな黒髪が背に流れる。
 無粋な革鎧に不似合いな、艶やかな漆黒の波。
 ほつれ髪が微風に揺れ、豊かな胸元に落ちた。
 開いた襟の中、光を跳ね返す、鮮やかな青い石の上へと。
 昇り始めた太陽に敬意を表するかのように、彼女は視線を落としたまま、しばし立ち尽くし、変わらぬ高さから照る朝日は、その姿を一つの彫像のようにうつし、霞ませていた。
 ありえぬ時の停滞が、あったかのような一瞬。
 存在しない、閑寂な瞬間。
 だが彫像は力強くその頭を上げ、一時の錯覚を叩き崩すと、旭日を真っすぐと見据えた。何かに、全てに挑むような視線を、正に昇りゆかんとする霸者に向けて立ち、命あるものの生命力をもって、時の停滞を打
ち砕いた。
 存在せぬ、その時の停止を。
 願えど、適えられる事の無い、流れの、停滞を。
 彼女は再び腕を上げ、今解いたばかりの髪をきっちりと纏め上げた。それでもやはり、革鎧には似合わぬ何かが残ってはいるようだったが、全てに対する覇気が、それを補って余り有る強さを示し、彼女の姿を屈強の戦士へと導いた。
「隊長」
 城壁の上へと至る階段の方から、彼女を呼ぶ声がした。
 彼女は元々は傭兵であったが、今はこの城壁の囲う古都の、市中警備の一角を担う西大隊の隊長を務めていた。
「来月の警備配置案ができましたので、目を通して頂きたいのですが」
 城壁の上に立つ彼女を認めると、階段からあらわれた彼はそう言って、彼女の返事を待った。
 彼は三人いる副隊長のうちの一人で、この町出身の正規兵。本来なら隊長になっていておかしくないのだが、表に立つよりは補佐のような役割の方が性に合っているようで、細かな配慮もでき、優秀な副官と言えた。
「分かった。すぐに行く」
 昇り来る朝日に挑んだ瞳の強さに見合った張りのある声が、しばしの間の後、振り返りもせぬ彼女から発せられた。
 見えてもいないであろうに、軽く会釈をして、副隊長はもと来た階段を降りて行った。
 気配と足音が去り、再び訪れる完全なる静寂と対峙。
 圧し止めることのできぬ時の経過に、微風が流れる。
 風の季節が、来ようとしている。
 全てを揺さぶる動の季節が。
 この小さな古都は、時代の流れの中、取り残された濁流の中の中洲のようなものだった。動乱の時の中にあって、怒涛の波に呑まれぬはずもない。
 静かな、老成した都にも、動の時は来るのだと。
 彼女は旭を見据えていた瞳を不意にそらし、兵舎へと降りる階段へ足を向けた。
 時は止まらぬ。動の時も来る。
 その流れを押し止めることのできる者など、何処にもいはしないのだから。
 確かな足取りで彼女が立ち去り、城壁の上にはただ、空しい低い陽光だけが取り残された。


 城壁に囲まれた町の中を、風が吹き抜けて行く。この小さな古い都市国家の外は乱世だと言うのに、通りを行き交う人々の表情にそんな影は全く見えず、長年続いて来た平穏が、この先崩れようとは、誰一人、考えてもいないようだ。かつて世界を統一し、長い平和な世を築いて隠れられ、世が乱れれば再び現れると語られる女神によって造られたと言われるこの町。今でも各地で広く信仰されている女神であったが、町の創設の謂れ故かここの女神信仰は強く、よもやこの町に、戦の陰の落ちる日などあるはずがないと、この平穏な日々は世の末まで続くものと、ここに住まう者たちは皆、思っているようだった。
 だが、女神が隠れられて既に千年以上の時が流れ、肖像のひとつも残されてはおらず、女神の真の姿を知るものもなく、諸外国にはその存在を疑うものさえ現れ始めていた。
 それでも女神の加護を信じる町には、平和を何の疑いもなく受け入れる人々を示すかのように、穏やかな夕暮れが訪れていた。
 乾いた風が裏通りにも流れ、凝りがちな生活の匂いを、何処かへと連れ去って行く。大きく傾いた太陽に一日の終わりを知らされ、流れる夕餉の支度の匂いと共に、ゆるやかな時間が町を満たしていた。
 文官風の若い男が一人、数冊の本と果実酒の瓶を抱えて、影が濃くなった通りを歩いて行く。決して華美でも最高級品でもない身なりだったが、その歩く姿やしぐさには、下町にはない品格のようなものが感じらた。だが、この古い町に長々と続いて来た大貴族達のような、鼻にかかった上流意識は感じられず、さしずめ下級貴族か、少々財力のある学識人の家のものと思われた。少し楽しそうに細められた目は、無邪気で素直そうで、少々世間知らずのように見えるところもまた、育ちを語っているようだった。
 青年は軽い足取りで、夕餉の匂いの流れる通りを歩き、やがて何の変哲もない、一軒の家の前で立ち止まった。そして路地に面した細い階段を昇ると、二階の扉を軽く叩いた。
「…だれ?」
 中から眠そうな女性の声が返ってきた。
「ぼくです。カイレイです。…シャナ」
 わずかにはにかんだように、最後に相手の名を付けて答えた彼の目の前で、扉は錠を外す音とともに開いた。
「…どしうたんだ? 今日は仕事が遅いから、会えないんじゃ
なかったのか?」
 扉を開け、少し驚いた表情で尋ねたのは、あの城壁のうえに立っていた女性だった。
 鎧に隠されていた豊かな肢体が、少し寝乱れたような軽装からのぞき、きっちりと纏め上げられていた髪は、わずかに乱れて滝のように流れ落ち、肩や胸にかかっている。その胸元もきちんと止められてはおらず、鮮やかな青い石と、今朝は影が落ちて見えなかった、それを囲む見事な入れ墨と共に、豊潤な丸みが微かに見え隠れしていた。
「あの、予定していた書庫の整理と総点検が、急に明日になったものですから…。シャナは夜勤明けのはずだからいると思ったので…。迷惑でしたか?」
 引き付けられる青の石の輝きとは別に、目のやり場に困ったように視線を動かしながら、神殿付属図書館に務める青年は、ちょっと申し訳なさそうに付け加えて、相手を見た。
 市中警備西大隊の女隊長は、そんな彼を見て鮮やかに笑った。
「まさか。嬉しいよ」
 そのおおらかな笑顔を目にして、青年の顔にも屈託のない笑みが広がる。
「これ、南方の美味しい果実酒なんですよ」
 そう言って差し出された瓶に目を落とした、鎧を外した女隊長の笑みは苦笑いになった。
「これは、部屋に上げずにはいられないね」
 その言葉に、青年の笑みも苦笑になった。
「どうぞ、あんたなら何時でも大歓迎だよ」
 年上の女性はそう言うと、扉を支えるように体を開いて青年を招き入る。
「あの、今日もまた、いろいろ聞かせてくれますか。女神のことや、南海の最古の寺院のことなんかを」
「…無粋だねぇ」
 軽くため息をつくような答えに、彼は失言を悟って言葉をつまらせた。彼女はかつて傭兵として各地を歩いて来たせいか、諸外国の女神の伝承や文献の知識も豊富で、女神に関する知識欲が旺盛なこの新米の文官に、折を見ては色々な話を聞かせてくれてはいたが、ふたりの間にはそれ以上のものがある。それはたとえ、下級貴族とはいえ、由緒ある家柄のカイレイと、流れて来た年上の女傭兵のシャナとでは、決して正式な間柄になれはしなくとも、二人にはさしたる問題ではない程の。
 若年の青年にとって、流れて行く傭兵にとって、いまこのときが、全てであった。
 なのに興味ばかりを先走らせてしまい、自分の言葉に思わず口を閉ざす相手を見て、シャナは笑った。
「そうだな…、寝物語になら聞かせてあげるよ」
 その言葉に、思わず耳まで真っ赤になったカイレイの腕をつかみ、笑いながら部屋の中へ引き入れる。そして、されるがままに引き込まれる彼も、照れたような表情で扉を潜った。


「おい、そこの若いの。そこにある本を、隣の部屋へ運んで並べてくれ」
 薄暗い書庫の中で、天井までびっしりと並べられた本を、この神殿付属の図書館に努める文官たちが、総出で整理している。その中で脚立に乗って本の点検をしていた一人が、通りがかった若い文官を捕まえて、抱えるほどの本の山を示した。
 言われた方のカイレイは、明るく返事をすると、何度かに分けて、隣の新たに増設した初期の歴史書の棚へ、本を移した。
 女神に憧れ、女神の研究に携わりたかったが為に、この図書館へ努めているカイレイにとって、古い歴史書に触れられることは嬉しいことで、どれ程不似合いな力仕事になろうとも、苦ではなかった。
 換気のための窓しか開けられていない書庫で、持ち込んだ小さな明かりを頼りに、丁寧に運び込んだ本を並べて行く。
 その手がふと、取ろうとした何冊目かの本の上で止まった。
 堅くなった黒い革表紙に白く染められた文字が薄れている。
『世界は三千の金銀銅を巡り四つの石に伝えられるだろう。すなわち、勝利、歴史、民、そして豊饒である』
 それは、各地に数多点在する神殿や寺院の壁に、必ず書かれている言葉だった。その意味については色々な説があるが、本当の正しいところを知るのは、女神ただ一人と言われていた。カイレイ自身は、この古い町で最も広く伝られている説を信じていた。「世界には三千の金と銀と銅があり、その全てを手に入れたものだけが、勝利、歴史、民、豊饒の宝石にも等しき四つの事柄をもつことができる」と。それだけの努力を払わねば、その四つの事柄をもつことはできないと言う、何かの諺のようなものだと。
 こんな古い歴史書の中に交じっている言うことは、それなりの所以あっての諺なのだろうかと、彼は何げなくその革表紙を捲ってみた。
 酷く長い年月開かれていなかったのか、堅くなった革表紙はばりばりと音を立てて開いた。
『金の時代の終わりに、この本を記す』
 初めの頁に書かれていたのは、それだけだった。
 金の時代? 聞いたことのない言葉だ。
 かりにも歴史家を目指す身のカイレイは、ぐっと、その本に引き付けられた。
『女神レナイアが身罷られ、金の時代が終わろうとしている。この後に銀の時代、銅の時代が来て再び、女神はこの地に現れる。その身を飾りし四つの石も、四人の後継者へと受け継がれたが、彼らも無き今は、いずこへ渡ったか既にわからず。長き時を経て再び女神の身を飾り、その力を用いてもらわんと、それぞれもまた、継承者の手から手へ、長き旅へと立って行ったのだ。勝利、歴史、民、豊饒、そのどれが欠けても国は成り立たず。そのどの石が欠けても、世界は成り立たず。故に、石の行方のつかめなくなれし今、統一国家は分裂し、華やかな金の時代の終わりを安易に予見させてくれる。
 全てが失われる前に、寺院の壁に刻まれし言葉の真の意味と、女神のつくりし統一国家の歴史とを、ここに記す』
 そんな前置きが初めに記してあり、手元の明かりでそれを読み下したカイレイは、さらに頁をめくった。
『螺旋を巻くようにして流れていると言われる時の流れの中、偉大なる女神は、四つの石の加護を持ち、三千年毎に現れては、乱れた世界を統一し、平和をもたらす。
 すなわち、世界は三千年毎に女神を迎え、統一国家の樹立と維持の金の時代、女神を失い、分裂を繰り返しながら、大国が衰退して行く銀の時代、多くの小国に細分化され、戦と貧困の蔓延る、混迷の銅の時代を繰り返し、再び女神を迎えるのだ。
 これが、三千の金銀銅である。
 そして、四つの石とは、勝利、歴史、民、豊饒を司る色石であり、女神の身を飾り、その存在を示すものである。今の女神
がその身を納めた南海の神殿の壁には、石と女神を示す、もうひとつの言葉が掘られている。
「額に勝利の緑、胸に歴史の青、左の手のひらに民の赤、右の手のひらに豊饒の黄色の石を握る者、世界を導く神とならん」
 この言葉が示すように、勝利は緑の石に、歴史は青の石に、民は赤の石に、豊饒は黄色の石に司られ、その全てを持つものが女神であるのだ。そして女神亡き後、石を引き継いだ継承者たちの上にも、石は同じところに戴かれてきた。つまり、勝利の緑は額に、歴史の青は胸に、民の赤と豊饒の黄色は手のひらに。だが金の時代の終わりに差しかかり、今や石の行方も、継承者の存在も知る人はなく、ここに記すことのできぬのを残念に思う次第である』
 そこまで読み、カイレイの目はある一文に注がれたまま、止まってしまった。
『歴史の青は胸に…』
 ちょっと乱れた、開けた襟元。
 昨夜見た、以前から知っていた、シャナの胸元。
 どんな技術によるものか、肌に埋め込まれた鮮やかな青い石を、装飾的な入れ墨が囲っているそれを、彼女は遠国で流行の装飾だと言っていた。特別に隠す事もなく、他に何の装飾品も付けない彼女に、それはとても良く似合う飾りだったので、今までその言葉に疑問を持ったことはなかった。だが歴史や南海の神殿に詳しく、胸元に青い石を持つシャナと、どう見ても酷く古びた、はるか昔に書かれたと思われる歴史書とが、今は結び付いて思えてならなかった。
『石の行方も、継承者の存在も知る人はなく…』
 それどころか、寺院や神殿の壁にある言葉の本当の意味も、四つの石の存在さえ人々の記憶から消え去り、女神の実在さえ信じぬ者もある今だ。もしかしてこの本の存在までもが、膨大な量の書物に埋もれて、書庫の中で忘れ去られているのかも知れない。
 誰かに教えたほうが良いのだろうか。この図書館には女神の研究をしている文官が少なからずいる。そう思いかけ、不意に打ち消した。
 シャナ…。
 彼女の石は、本当に遠国の流行ものなのだろうか。
 だが、この本の存在を黙っているのは…。
 そんな考えに沈み始めたとき、重い書庫の扉が開く音で我に返った。
「カイレイ、まだまだ仕事はあるんだ。さっさと片付けてくれないか」
 普段から同じ仕事を担当している、すぐ上の文官だった。
「あ、はい」
 慌てて返事を返し、本を閉じた。
 そして平静を装い、運んで来た本を棚に並べる作業に戻りながら、その古い革表紙の本を見失わないように、棚の端へと彼はしまった。


 夕暮れの迫るころ、閉じかけた町の城門を、一騎の早馬が駆け抜け、町の中心へと走り去って行った。そしてそれから程なく、各部隊の武官が次々と、町の中心にある、神殿に隣接した建物へと集まって来た。
 非番を終えて、昼過ぎに二人の副隊長から警備を引き継いでいたシャナも、市中警備西大隊の隊長として呼ばれていた。町の警備は大きく五つに分けられており、東西南北のそれぞれに大隊を置き、中央が統括も兼ねている。そしてそこには、シャナ以外の大隊長も呼ばれていた。
 そろった顔触れを見て、彼女は短くため息をついた。
 長い傭兵生活で、正規兵と傭兵の区別はつくようになっていたが、集まったこの主立った武官の四人に一人は正規兵ではないのだ。立派な城壁を持ちながらも、古い神殿を持つが故、女神信仰の中で一度も戦いを経験せずに来た古都は、軍隊というものを軽視して来たのだろう。そんな中に人材の育つ筈もない。それに、もともと正規兵の数自体が少ないのだ。彼女の下にも、正規兵は半分ほどしかいない。実戦になったとき、どれほどの力が望めるものか…。そう考えると、ため息をつかずにはいられなかった。
 何のための招集か、実のところ彼女には察しがついていた。少し前から、湖の向こう側の大国の間者が、何人も町に入って来ているのだ。
 女神の存在を否定し、弱小国を大国へと伸し上げた現王を崇めるその国にとって、長い歴史を持ち、由緒正しき女神を祭る神殿を中核に成るこの町は、己の正当性を示すのに邪魔な存在でしかない。この町にも一年ほど前までは、女神を信じる大国が後ろ盾についていてくれたのだが、その国も内戦の混乱に外から付け込まれ、あっけなく滅んでしまった。だが裸同然となっても、昔からの習慣からか、危機感を持って対処しようというものはいなかった。
 そして、今を迎えてしまったのだ。
 急速に進む湖の縮小と土地の荒廃。民心は現実の人間へ移って行ったとしても、誰も文句は言えまい。
「皆、よく聞いてくれ」
 自分の思考に沈んでいたシャナは、部屋へ入って来た武官長の声にゆっくりと顔を上げた。
「湖の向こうの国が、この町へ向けて兵を挙げる準備をしているそうだ」
 とうとう、そのときが来たのか。
 彼女には馴染みのことであったが、この町にとっては、全てを注いで立ち向かわなくてはならない、戦のときが。
 それは全てが動く、動のとき。
 そして、勝率の低い、あがきにも似ていた。
 シャナはひとりそのときを思い、そっと目を伏せた。





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